白岩について、名栗村史からいくつか記述を引用します。
この村史は昭和三十五年に発行されたものです(私が参照したのは昭和五十七年三月の復刻版)。
村のホームページによると、昭和30年代前半が人口のこれまででもっとも多い時期であったというから、
もっとも戸数の多いときでも、上記の二十一戸とさほど変わらぬものと考えてよいでしょう。
以下、引用です。
「白岩の神林家は落人として入りこみ、むかし「むかで丸」という伝家の宝刀があつたといい、 新井家も新井高遠兼定が落人となつてこゝに土着したと伝えている。 両家とも秩父方面から落ちてきたというのみで、記録等も焼失し、その由緒をつまびらかにすることはできない。(p53)」
「炭焼きについては、御林や秣場のところで述べたように、分収制によつて自営とするもの、あるいは山主に雇われての、 いわゆる日雇稼ぎのものとがあった。これらの業は農間稼ぎというよりは、むしろ専業に近いものであった。
とくに白岩、蝉指をはじめ、奥地の住民にとつては、耕すべき土地は皆無に近いので、 男女とも炭焼き、炭俵編み、炭の背負出しが、年間を通じての主な生業であつた。
白岩のごとき、寛政八年には一二戸中八戸までは炭焼専業者であり、ごく近年までほとんど全戸が炭焼を専業としていたほどである。(p141)」
「名栗谷が活気をおびて、人の出入りもはげしくなり、文化的にも向上したのは、 しばしば述べきたつたように、江戸の繁栄が木材、薪炭を名栗谷に求めるようになってからのことである。 それにしても一般の村人たちは、杣、炭焼き、炭の背負い出し、紙すきといつた利の乏しい労働に、 もくもくとして生活の道を見出していたのにすぎなかつたであろう。(p343)」
炭を江戸に運ぶルートについては、たとえば文政十年の書出しによると、まず往来に背負出し(名郷か?)、
ここから飯能まで筏あるいは牛や馬に積んでで送り、飯能から川越の新河岸までは牛または馬で積出し、
新河岸からは舟積みにして浅草川通りの問屋まで運んだそうである。
またp303には「第78図 炭の背負い出し(白岩)」として、炭の背負いだしをしている女性たちの写真が掲載されています。
(追記)
一昔前の様子についての資料を引用します。
「・・・名郷銀座と呼ばれる界隈には、パチンコ屋が二軒、コップ酒の出る飲み屋が三軒位あった。 ここには名郷木材の職工や近辺の石灰の採掘に関わる人なども集まってきてにぎやかだった。
石灰の採掘は、白岩で戦前からはじまった。戦中、鋼管工業がこれを引継ぎ、その後一時 中断されたが戦後すぐに再開された。字山下にある新鋼工業は昭和三五〜六年から開始。 鋼管は、名栗の人の他にも、吾野からも人が来て働いていた。坑内の採掘は吾野の人が携わっていた。
・・・白岩では、戦後も昭和三十年代まで、炭を焼いていた。・・・」
(『名栗村史研究 那栗郷 2』 2001年3月31日発行 名栗村史資料調査委員会)
(追記2)
もうひとつ引用です。
「・・・これとは別に、名栗の白岩では良質の石灰が産出し、日本鋼管の系列会社である鋼管鉱業(株)が、 戦後、ケーブルを使って吾野駅経由で石灰石を出していたが、その一部を筒井商工という別会社が買取って、 吾野で消石灰に焼く仕事をやっていた。そのため吾野駅周辺の民家の屋根を白くしていた時代もあったが、 経済事情が変化して名栗の石灰はトラック輸送に転換してケーブル輸送をやめ、筒井商工も吾野から撤退していった。 ・・・」
(『飯能市史 資料編Ⅹ 産業』 p308上 昭和六十年三月二十日発行 飯能市史編集委員会)
これによると白岩から吾野までケーブルが引かれていたようですが、どういうルートで敷かれたのでしょう? 直線上には子の権現があったりしますが・・・。