古文書編担当調査員新井清寿
大河原文子家文書
天和元年(1681)12月12日
「古文書」と聞いただけで「あんなの読めないからだめだ」とアレルギー反応を示して拒否される方が多いのですが、少しなれれば誰でも読めますし、古い書物は、私たちの祖先のなまなましい生活の記録で、かけがえのない貴重品なのです。
私はながい間、飯能の市街地はいつ頃から町の形態をとるようになったか知りたいと思っていました。たまたま二丁目の大河原さん(薬局)に古い書きものがたくさんあるというので見せていただいたら、その中に一枚のしわくちゃの文書がありました(写真参照)。これは田を売った証文です。文面をわかりやすく説明すると、次のようです。
「このおごったの田は私名義で、籾壱斗まきの田です、これを金三分で永代売り渡します。 このことについて、親類は勿論、誰からも、もんくは言わせません。若しよそから何か言う者があったら、證人の責任で必ず解決します」
というような意味の証文ですが、この売買の年号が天和元年です。天和元年は今から丁度三百年前です。そして売った人が飯能村の傅兵衛で、買った人が飯能町の太郎左衛門です。
この事は何を意味するかと申しますと、今からおよそ三百年ほど前には、飯能村と久下分村の境界に、人家が並び町の形態をとり市がたち、山方の産物である、炭、薪、材木、杉皮などが出され、また平地から運んできた、むしろ、縄、米や日用雑貨品などが売買されたものと思われます。だから当時の入々は、この場所を町と呼んでいたものと思われます。
正保(今から三百四十年程前)の頃の地図を見ると、現在の入間地方では、町と書かれたのは川越と高麗と中山だけだったがその後元禄の地図からは中山は村とかかれていますので三、四十年後には町は中山から飯能に移ったものと考えられます。
このように一枚の文書が、飯能町の出現を教えてくれる貴重な資料となるのですから、古い書物は大切にしたいものです。
※このように貴重な資料をお持ちの方は、市史編さん室か市史編さん調査員へお知らせ下さい。
その文書が市史の新しいぺージをかざることになるかも知れません。
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