産業編担当調査員
井上峰次
高麗川の水力による製材(昭和8年頃)
写真のように動力源として使われてきた水車も、水力発電による電力の供給により徐々になくなっていった。
「いつまでも、ただで動力を得られるのにどうして電力にかえてしまったのか」などの話が残っている。
秋の陽にかずよふ高麗の川波に
うかぶ筏の下りやまずも
─大正四年秋─
浅見孤村
川と人間生活のかかわりが、ふかく、密接であったように、産業もまた川との強い結びつきによる展開をみたと言えよう。飯能の名栗川(入間川)、高麗川なども、地域の住民のくらしやなりわいに大きくかかわってきた。
冒頭の歌にみられる川と筏は、いわば飯能の産業史の「きわめ付」のようなもので、かつての秋出水の高麗川には、特産の西川材を流送する筏がしきりであったことがうかがわれる。
この筏については、すでに多くの報告がなされているが、一歩踏みこむとまだ明らかでないことが随分ある。
たとえば、いつ頃からどの位の材木を運んで、どれ程の収益を得、住民のくらしにどの程度役立っていたか。それは断片的にとらえられていても、これらを総合的に知ることの出来る資料はまだ見当たらない。とにかく飯能の川と産業の歴史から筏を除外することはできないので、ぜひ、その資料が欲しいものである。
筏のほかに「さ流し」とよばれる、川を利用した集、運材も行われ、河原は木材の集積場でもあった。このように西川材は、川を離れては世に出ることがなかったかも知れない。
飯能の川には農山村の風物詩ともいえる水車が多かった。
小谷野寛一氏の調査によれば、名栗、高麗川筋(各支流も含めて)には、七十〜八十個所以上の水車があったようだ。精麦精粉が主だが、産業としては西川材を挽き立てた水力製材用の水車をとりあげる必要があろう。
飯能では水力製材所が十数ヶ所もあり、それは明治三十年代から始められたようで、中には戦後まで続けられた水車もあるという。機械による製材の草分けであり、手作業の木挽きから、現在の電動による製材へのうつりかわりを知る上で見逃すことができない。
大正九年頃には、名栗川、高麗川とも水力発電が行われた。地元の資金による、地元の川を電源とした文明の灯が、大正、昭和の一時期にともされたわけである。いまでも、長沢の大野勝男氏宅には、この詳細な資料が保存されている。
かつて川は住民の生活のきずなとして守られてきた。豊富できれいな川をよみがえらせるためにも、過去の川とのかかわりをじっくり調べる必要があろう。その意味で、市史産業編は川とのかかわりを避けて通れない。課題にどこまで迫れるか心配でもある。
多くの応援をいただきたい。
時折り住居表示変更の葉書がとどく。そのあと、当分の間手紙を出すにも、それになじめないものである。
行政の合理化のためには、やむを得ないことだとも思うが、なんとなくさびしい気がする。
もともと地名はながい歴史をもち、とおい先祖からなじんできたもので、ふるさとを離れて暮らす人たちなどにとっては、どれだけ心の支えになってきたことか。それは愛着以上のものであろう。
本号では、地名について織戸さんに書いてもらった。これから消えていくこともあろう地名のルーツをたずね、今後に残して置こうというのがこの部会の仕事である。
また、産業編にたずさわる井上さんには、川にかかわることを書いてもらった。川によって林業が盛んになり、さまざまな恩恵を受けてきたことである。
私たちは、その川をますます大切にして次代へ残すよう心掛けなければなるまい。川あれば道あり、道あればそこに家があって、川と地名の関係もまた深い。
(編集委員・島田欽一)