民俗編担当調査員小谷野寛一
大正初期の嫁入衣裳
乗り物の無い時代の結婚式(ご祝儀)で、嫁さんがどのくらい歩いたものかと、八十歳から九十歳ぐらいの方、十人ほどに聞いて回った。
おどろいた。五里(二十キロ)というのがあった。十五キロぐらいのもあった。十キロなら、さまで遠い口ではなかった。
しかも、飯能は奥へ行くほど、坂道となるのだから大変なことである。
二十キロと聞いた日、あまり感心したので、その帰り道、私も同じ道を十ニキロほど歩いてみた。うちへはいる時、つんのめりそうであった。
しかも私は運動ぐつの軽装、あちらは、シャラリ、シャラリの花嫁姿。いくら「おはしょり」したといっても、まさかふん張って歩くわけにもいくまい。昔の人の苦労が、ほとほと身にしみた。
「坂道では、ぞうりに代えた」という方があった。黒のひっかえしを着た例が多かった。
蚕をして、繭を取り、糸をひき、自分で織って、それを着て来ました──という方があった。その時持って来た三枚の中の二枚を見せてくれた。戦争中のモンペを思い出すほどの地味な色合いであった。
「すそまわしが切れました」「その晩、字中をまわったので下駄がゆるんでしまいました」とも聞いた。昔の人が、いかに達者だといっても、下駄が一足、はきくずれるほど歩かせられてはたまるまい。
しかし、乗り物の無い時代は「歩くもの」ときまっていたので、さほど苦労にはしなかった模様である。
小学生が、飯能の町中から、子の山へ歩いて遠足したり、原市場から高水山へ、幾尾根越えて元気で遠足した時代だから、皆足も強かったには違いないが、なんせ「花嫁姿」の遠道では、まことに同情にあたいする。
花嫁むかえに婿(むこ)が行くのは昔のしきたり。だから婿は嫁の倍歩いた。片道十五キロなら婿は往復で三十キロとなる。いやはやというところである。
「相手の顔はその晩見ました」「どんな所にある家か、来るまで知りませんでした」「親が行けというから行きました」「兄弟二人と聞いて、来て見たら、下に四人ぞろぞろ居ました」とも聞いた。いろいろ昔の事を聞くにつけ、ありがたいコンニチ様だと思った。
2日 | 土屋家、森家文書調査 |
5日 | 地名・姓氏編部会 |
7日 | 民俗編部会 |
12日 | 地名・姓氏編部会 |
14日 | 民俗編部会 |
15日 | 編集小委員会 |
17日 | 野口家文書調査 |
27日 | 行政編部会 |
28日 | 民俗編部会 東吾野公民館資料調査 |
29日 | 産業編部会 |
30日 | 調査員全体会 |
4日 | 民俗編部会 |
5日 | 行政編部会 |
9日 | 地名・姓氏編部会現地調査(虎秀地区) |
12日 | 浅海家文書調査 民俗編部会 |
18日 | 民俗編部会 |
19日 | 行政編部会 |
20日 | 編集小委員会 |
25日 | 産業編部会 |
30日 | 地名・姓氏編部会 |
31日 | 原田家文書調査 |
1日 | 行政編部会 |
2日 | 民俗編部会 |
13日 | 地名・姓氏編部会 |
14日 | 編集委員会 |
24日 | 編さん委員会(飯能市史─年表の発刊について) |
27日 | 地名・姓氏編部会 |
28日 | 産業編部会 |
29日 | 民俗編部会 |