民俗編担当調査員
倉掛一男
歳神様
私は民俗編担当の調査員として、主として「民俗の知恵」の部を受け持った。五年余の歳月をかけて、それが近日出版の運びとなった。
各地を回り、お年寄りの方々など、たくさんの人のご協力を男得てきたことである。そうした皆様に深く感謝申し上げなければならない。
もっと書かなければならないことが多くあったと思うが、紙幅の制限もあり、十分でなかったことをお詫びしたい。
さて、民俗のうち、暮れから正月へかけての行事や禁忌について述べてみたい。
お正月の餅は、所によっては揚かないが、掲くには二十九日をさける。
九は苦に通じるということなのか。一夜飾りといって、大晦日の松飾りは忌む。暮れは忙しいので早目に、という警告でもあろう。
また、大晦日には、火の大切なことを教えるものとして、囲炉裡の火を消さない習わしがある。その夜に早寝をすれば白髪が増えるともいう。
大晦日の夜は、小豆ご飯を炊いて神々にあげ、お頭付きの魚、けんちん汁で一家揃って食べるが、「喰っ払い」をきらってご飯を余るように炊く家もある。テレビの紅白歌合戦を見、除夜の鐘の音を聞いて寝につく。昔から伝えられてきた行事の現代版である。
一夜明ければ元旦。年男は若水を汲んで雑煮をつくる。雑煮は芋と大根の吸物に餅を入れる。そこで女衆を起こして、家族揃って箸をとり、新年を祝う。これは三ヶ日とも同じである。
神々には里芋や大根を供えるが、三ヶ日、つぎつぎに盛り上げていく。元日の夜はとろろ汁、二日にはそばといわれてきた。芋と大根というのは、貧富の差なくこしらえることができ、至って簡素なものである。
三ヶ日が過ぎると、四日には歳神様が帰られる。その朝「お炊き上げ」とてご飯を上げ、三ヶ日の間神々に上げたものを、全部一つの鍋に入れて雑炊として食べる。これが「棚さがし」である。いまどき考えてみれば、大変非衛生的であるが、これも食べ物を大切に、の教えでもあり、粟やひえを食べ、米は一粒でも大切にした時代の名残りでもあろう。
山手町の第一小学校南門の前路地を少し入ったところに「出世稲荷」という小祠がある。
いつごろ造られたものか分からないが、その社の細工物(彫刻)は非常に細密で立派なものである。先日神社総代の清水三重三氏が中の整理をしたところ、戸棚から稲荷講の連名帳など多くの古文書がでてきたという。
早速市史編さん係も見せて頂いたが、天明九年(一七八九)をはじめとして江戸時代のもの六点、明治のもの十四点、大正のもの八点、昭和のもの二十六点、不明一点の五十五点であった。最新のものは昭和十五年であり、太平洋戦争突入の前年で終わっているのも何やら意味あり気である。
いずれにしても、代々この貴重な資料を損傷なしに管理されてきた総代はじめ関係者に敬意を表したい。
この資料によって、往時の信仰の様子、物価の移りかわりなどが分かってくると思うが、調査のまたれるところである。
調べるほどに、さまざまな話を聞き、その場面に出合ったりする。習俗のことは、まことに複雑であり、多様である。
たとえば、神の祀りを取りあげてみても、村により、また、同じ村にあっても、家によってその方法はさまざまである。方法、それはとりもなおさずしきたりである。私たちは何の気なしにそれを継承しているが、いうなれば「型」としてそこに定着しているということは、とおい祖先からの歴史を背負っていることに気付くのである。
ある時、そこの家が大変な災厄に出合った。考えてみると、その年に神参りを怠ったため、また、いままで手がけたことのない野菜を作ったからだとかいうような話も聞いた。
そうしてみると、しきたりは、何とかして活路を見いだそうとした、いわば願望の中から生まれたものだともいえよう。それが庶民の浮かぶ瀬もなかった封建の世には、まして切実なものであったにちがいない。
習俗、それは科学を超越して存在し、これからも受けつがれていくにちがいない。
編集委員 島田欽一