市史編さん嘱託
産業篇担当野口正元
格知学校記録より
大昔の焼畑農業時代には「肥料」の考えは余り無かったと思われる。落葉で作った堆肥は、自然現象から学んだものであろうし、人糞尿が使われだしたのも人間の知恵であろう。
明治21年の加治村の記録によると、小学校の小使いの年給が2円で、学校から出る下肥を小使いの方から年1円20銭で購入している。(写真)
自分の畑の肥料にしたのだろうが、昔はこれで間に合った。
市街地の町家と近在の農家とは、それなりに約束ができていて、便所の汲み取りは農家が喜んでやってくれた。また、武蔵野線(現西武鉄道)によって、東京都民の糞尿が加治や精明地区の農業に役立っていた。
金肥は明治の終り頃から使われはじめ、大正から昭和にかけて、桑園の窒素肥料として、大豆粕が全国的に多量に出回った。
直径60㎝ぐらいの大きな円盤状のまま購入し、それを簡単な機械にかけて粉砕した。ニシンやイワシの〆粕も出てきたが、これは高価で使いきれなかった。
大正11年、入間郡役所から土性調査試験地肥料に関し、技術員を派遣するから、試験地一か所毎に左記数量の肥料を用意しておくようにとして、硫安20%過燐酸石灰20%、硫酸加里20%のものを田(試験区5畝)に3貫目ずつ、畑(試験区50歩)に1貫目ずつが指示されている。
従ってこの頃から肥料の三要素の知識が一般農家にも指導されはじめたと見てよいであろう。
現在、肥料はほとんど化学工場で作られ、いろいろに配合されて、田畑から観賞草花用まで雑多にあるが、無肥栽培はそう遠い昔のことではない。
わが国の釣人口は、いまや一千万人を超えるといわれております。
海や河川でレジャーの魚釣りをするのが流行しているようですが、江戸時代には魚猟を職業としていた人達が、飯能周辺にもいたようです。もちろん小さい河川ですので、専業というわけにはいかなかったでしょうが、生活のたすけとしていたようです。
大字北川の浅海公介氏宅から借用した文書によると、文化八年(一八一一)に高麗川筋上流部の吾野地区に十五人の名前が見えます。これを要約すると「川下(現在の東吾野地区)に新しく水車堰などができたため鮎の遡上が思わしくなくなってしまいました。昔から魚猟札をもらって税金も納めてきており、この上は新規の堰は許可しないようにしてもらうよう仲間一同で願い上げます。」という内容です。
いまの言葉でいえば古来からの生活権を脅かされるといったところでしょうか。
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