調査員島田欽一
よく晴れた日には、市役所の五階の窓から、池袋のサンシャインビルが肉眼でも見える。北東の方、はるかに筑波山。まさに関東平野を一望といったところである。
わたしたちの飯能は、関東平野の西端に位置し、ここから扇のかなめ状に広大な平野がひろがっていて、地質学の面でも重要な位置を占めているという。
地学を志す者、秩父は勿論のことであるが、その人たちは飯能にもよく足を運んで来る。
矢颪の山中、それもさほど深くない所に不動の滝がある。水量は少ないが、落差はかなりあって、そこに秩父山系の隆起によって生じたといわれる断層が認められるのである。古生代から中世代にかけての、いわゆる造山運動の名残である。
そこからさらに300mほど奥に人ると、石灰石の露頭を見ることができるのである。
飯能礫層といわれているのは、市内から矢颪へ架かる矢久橋の下手、北側の河岸である。
中新世の後期から鮮新世の頃には、青梅、飯能を結ぶ線あたりまで海が入りこんでいたという。もうそのときには秩父の山は形づくられていたので、山間から流れてきた礫岩が沈澱したものであるという。この礫岩は洪水の作用によっても堆積したといわれ、ローム層の下にかなりの厚さになっており、その上に火山が噴火の灰を降らせた。それもまた流水や風の力によっていろいろに変化したといわれているが、この時代でも、なお大地の隆起沈降はつづいていたということである。
成木川に渡した清川橋の近くに、農業用水のせきがある。コンクリートの永久せきであるが、そのすぐ下に、石灰石がほかの岩石とかみ合って見事な様相を呈している。
この岩石は川底の低下によって、近年になって見えてきたということであったが、同じ海底にあったものでも、滝沢のそれと考え合わせるとき、これは造山活動のとき、沈下というよりも、とり残されたというものであろう。
とにかく、この石灰岩の露頭は、関東平野の西、高崎と八王子を結ぶ線上で、最も東寄りに出現したものであると思われる。
なお、せきの工事のときに、深く掘り下げたところ、そこから炭化した大木が出てきたとのことであった。
いずれにしても、ここにも古生代がはっきりと顔を出しているということである。
昭和四十九年のことに、狭山市笹井の河原からメタセコイアの化石林が見つかった。200万年ほど前、この木が非常にはびこったことがあるといわれ、その大株が掘り出されたのであった。アケボノ象の化石が見つかったのもそこからすぐ近くである。
ところが、その化石はたまたま川底だから発見されたというものであり、わたしたちの足下深くにも眠っているとみて差支えない。市役所の東、西武ガスの会社で深井戸を掘ったとき、炭化した木の皮が出たということであるが、残念ながら記録に
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