成木川の石灰岩露頭
は表れていない。
ところが、椿本チエイン(株)でのさく井記録によれば、38mから43mの深さにかけて、腐蝕土として、昔の植物の跡がはっきりと出てくるのである。
まさに40mの深さに200年前の陸地が眠っているということである。
昭和二十年代のことだったと思う。精明の小学校で井戸を掘ったとき、それは手掘りだったが、木目のはっきりした化石が出てきた記憶がある。また、最近では飯能斎場の工事中に炭化した木が出土したことがあった。
深さの差こそあれ、その地表は当然つながっていなければならず森林をアケボノ象がノッシノッシと歩き回っていたことを考えると、興味は尽きることなく、夢はどこまでも広がるというものである。
江戸時代は、現在「大字」と呼ばれている地域を一つの村として、行政が行われておりました。この村には、いまの役所と同様いくつかの公文書がつくられており、なかでも年貢に関する帳簿は大切なものでした。
それとともに村の絵図がつくられており、地絵図、地引絵図などとも呼ばれて、村の概況が平面的に描かれ、今日の地図とはちがい、必要な場所は強調されておりました。
本市でも、資料収集の折にこれらを所蔵されている方がおられましたが、当時の村の様子を知るには、恰好な資料ということがいえましょう。
いまでも蔵造り(土蔵造り)の建物を、市内のあちこちで見かけます。
商品、家財、穀物などを安全に保管、貯蔵するには、この建物は最適のようです。
江戸時代、この蔵を郷村ごとに設置して、年貢米輸送のための一時的な収納倉庫としていました。これを郷蔵(郷倉)と呼び、この敷地に対する年貢は免除されておりました。中期以降になると、設置目的とは異なり非常災害に備えるための貯穀蔵として利用されたのが、この地方ではほとんどで、災害時には貯えてある穀物を救済や貸付けに用いました。
それというのも寛保の大洪水、天明の飢饅、天保の大凶作などに代表されるように、農民生活は災害との闘いの歴史であったからでした。
飯能市域の村々でも、これらに関連した資料が多く残されており、寛保二年(一七四二)の洪水では、南川村、坂元村で死者がでたり、家財が押し流されたり、天明四年(一七八四)には白子村、矢颪村等が夫食(農民の食糧)を拝借し、天保二年(一八三一)から八年ごろまでつづいた長期の不作には、多くの村が夫食拝借、年貢の延納などを幕府や藩へ願い出ています。
この外、鳥獣による作物の被害、火災、旱損(日照りによる不作)など、いろいろな災害によって生活が困難になると、郷蔵に貯えてある麦や稗などを拝借して、露命をつないできたのでした。
この郷蔵は、一村に一か所、数村で一か所、一村の中に二か所等、それぞれ地域の実情に合わせて造られていたようです。
三億年もの昔、といえば気が遠くなるほどであるが、太平洋の波間に秩父の山がこつ然と姿を現して以来、さまざまな地殻の変動、気候の変化から海岸線の進入、後退など、日本列島が今日の顔をもつまでに、どれほどの変わりようをしてきたことか。これを飯能について考えてみるとき、ちょうど山地と平野の境にあって、一層それがはげしかったにちがいない。
地学のことになると、なまはんかな知識など到底及ぶべくもないことであるが、いままで目で見、手に触れてきたことについて書いてみた。
秩父からぢかにつながる強固な地底の岩盤。わたしたちの飯能は、地震にも極めて強いといわれている。
くわしいことについては、いずれ市史の「地誌」編でとり上げられることと思うが、人類の歴史以前の大地の成因について考えてみることも無駄ではあるまい。三億年の歴史に比べれば、人類の足あとは針でつついたほどもないが、この来し方を大切にしていきたいものである。
編集委貝島田欽一