短詩形の典型ともいえる俳句は、もともと俳諧連歌の初句のことであったが、室町時代末ごろから発句として行われ、芭蕉以後独立した五七五の十七音で一つの作品とするに至った。
その後、芭蕉の流れをくむ人達などの活躍はあったものの、全国的には停滞し、江戸時代中期に、ようやく隆盛期をむかえることとなった。
この時代は、芭蕉が没してからおよそ百年を経ているが、同時代に活躍した人は西から青羅(播磨)、蕪村(大坂)、樗良(伊勢)、暁台(尾張)、白雄(江戸、信州)、太祇(江戸)などである。
これらの人達の伝統俳句は、明治の中ごろまで続き、やがて正岡子規による新派俳句の勃興をむかえることとなり、明治三十年の「ホトトギス」の発刊によって現代俳句の礎が築かれた。
飯能における俳譜の歴史も、その始まりを江戸中期に見ることができる。
前記の白雄(加舎白雄)は、天明俳壇の重鎮といわれ、信州上田藩士加舎吉享の次男として元文三年(一七三八)に江戸深川で生まれた。成長して俳譜に通じ、春秋庵を興して蕉風俳譜中興の祖といわれるほどの巨匠となった。その弟子は関東、甲信越に四千人を数えたといわれ、後述する玉瓜などもその一人であったろうと思われる。
飯能近在ではとくに毛呂山町の川村碩布が著名で、白雄門の八哲の一人でもあり、のちに春秋庵四世を継いでいるほどである。
このように飯能近在でも盛んで、その大方は春秋庵の影響下にあったようだ。
そこで飯能市域に住んでいた江戸期の俳人の人と作品を紹介してみることにする。
吾野南村の人で、岡部東兵衛といった。岡部家は「日本国に鬼神と聞へさせ給いたる」平家の武将薩摩守忠度を一ノ谷で討ちとった武蔵国の住人岡部六弥太忠澄の統であるといわれ、近世になってからは、南村の名主役を世襲している家柄である。
東兵衛は白雄と同時代を生きた人で、文化七年に没している。
天明八年の鮫州海婁禅刹での芭蕉法会にも出席しており、信州への吟行にも参加していることから、春秋門の高弟ではなかったかと思われる。「草稿」と題する句集を編んでいるが、内容も優れているとともに、地元を題材としているものなどがあっておもしろい。
月ひと夜かはかぬ蓑をかり枕
五月雨や鋳捨ての釜の水すまし
さなでだに枕になづむ暑かな
糸遊に荒駒の髻乱れけり
(寛政末期)
飯能村の俳人轍之は、本名を加涌与八といい、やはり春秋庵系の人である。
春秋庵二世を継いだ小蓑庵常世田長翠(本庄宿住)が寛政十年に刊行した「黒祢宜」にも彼の旬は載っており、観音寺境内の芭蕉句碑の碑表にある「秋のあはれ菊作らずも咲にけり」も轍之の作であるという。
瀬の音の若葉にこもる夕へ哉
むめか香や船へなけこむ薄ふとん
葉桜やきのふにかはる人の情
蝉鳴て人三尺の影ほうし
(寛政十年)
飯能郷土史に「河原町筏宿の人」と書かれているこの人は、江戸の俳人とも交流があったといわれる。
かがり火や橋の裏照る鵜飼舟
田草取る里に千軒長者哉
(文化六年)
筆とればとる度かなし秋の夕
(文政十一年)
飯能町の名望家小能家の八代目当主伊之八光慶は、嘉永五年(一八五二)に五十二歳で没している。幼いときから俳譜の道を志し、秩父屋と号する織物糸
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