市史編さん調査員島田欽一
年の九月」日は、まるで抜けるような秋空の穏やかな日であった。
それにしても、私の今日まで生きてきた道程で、九月一日にまつわる思い出の何と多いことか。まこと不思議のようでさえあるが、わけても幼時の記憶として、関東大震災のときのことは、きれぎれにではあるが、いまでも鮮明に脳裏に残っている。
大正十二年九月一 日、残暑のきびしい日であった。ちょうど昼の飯どき、グラグラッときて、よろけながら庭へ連れ出された。
父は揺れ動く母屋へ手を合わせて念仏を称えていた。やっと静けさの戻った夜は、余震を心配したのだろう、裏の樫の木の下へ縁台を並べて寝たが、それがまた物珍しかった。そして祖母に連れられて野道へ出て、まっ赤に染まった東京の空を見せられたのであった。
数え年五つの時の覚えは、たったそれだけであるが、焼けただれた東京の空は、その後の昭和二十年三月十日の大空襲のときの記憶と重なって、いつまでも消えることではない。
いま私の手許に、当時の報知新聞編集局編による「大正大震災記」の写しがあるが、これは三十五ぺージにわたる詳報であって、大字青木の新井忠治さんのところに保存されている貴重なものである。
それによると、九月十二日付臨時救護局の調べで、焼失、倒壊戸数三十万五干七百八十八戸、死者七万四千二十四人とある。
もっとも、これは直後のこととて、市役所の調べと警視庁のそれとくい違っていたりして、その数はさらに増加したのであったが、小学校の焼失百十七校というのを見ても、その損害ははかり知れず、当時の金にして百億とも書かれている。
さて、この地方はどうかといえば、翌二日に精明村長(当時)からの報告で、半潰家屋八棟、負傷者一人となっていて、比較的損害は軽かったようである。
だが、村内に親類縁者を頼って罹災地から避難して来た人は、男三十七人、女四十五人とあり、被災のはげしかった東京・横浜などへの義損金も五百二十八円七十五銭に達し、小学校、青年団など、それぞれに協力している。記録によれば男子青年団が百円、処女会が五十円となっている。
これは災害に当たって、村当局の対処の仕方はともかく、当時の人心の動向、ひいては世相を知るうえにも得がたい記録である。
いま仮りに大正十二年のときのような大震災が起こったとしたら、その災害は到底当時の比ではあるまい。
戦争はもとより、絶対にあって欲しくないことであるが、忘れた頃にやってくる、といわれる災害に対して、私たちは常に心の準備が必要というものであろう。
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文化財、飯能の自然-植物、教育、社寺教会、行政(一)、民俗、行政(二)、近世文書
以上各千円
市史年表 五百円
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