の人々へ よしなに伝へたまへかし くれぐれも此をりがらをいとゐてよ
このように誘いをうけたものの、師の頼囲はこれに反対であった。執抑な萬寿子の誘いと師の間で、ゆれ動く若きかく子の心はいかばかりであったろうか。
終に明治七年の末には甲府行きに意を決したようである。しかし、頼圃は納得せず、翌一月に父親宛につぎの手紙をよこしている。
奉拝啓候 先日はゆる〱(注:くの字点)御馳走に相成り有難く存じたてまつり候 ほのかに承り候へば 角子君を甲府へ御遣にも相成べくやの趣に候へども 是は大に宜しからず儀に存じたてまつり候 一体甲府は人気宜しからず行作(行儀作法)見覚の為にも相成らず上 学問は一向開き申さず殊に婦入は吟子程も読書の出来候者はこれ無く候へば 学問の為にも相成らず 角子君最早何時迄も学問に年月を御費しに相成候訳にもこれ無きと存じたてまつり候間 萬一小子方にて御修業にては御差支の内情もこれ有候はば 姉小路へ御遣し然るべくと存たてまつり候 第一甲府より道も近く学問行作の為にも天地の相違に御座候 折角是迄御心掛の芸 一時に水のあわに相成候は何とも残念の至につき此段申上たてまつり候 実に今のみにて一生の芸に相成後年迄本人に恥ざる様相成候間世俗小人に御構これ無き様罷成度存じたてまつり候 御親君等に対し右聯失敬申上候も たゞ〱御当人の御為故悪しからず御聞受下さるべく候 外の事はいざ知らず学問だけの所はおこがましく候へども 小子の申條おとり用いに相成度 此段ほどよく御家内様方へ御申さとしの程願上げたてまつり候 先要用のみ余は後便等で萬々申上たてまつり候 以上
一月廿九日(明治八年)
頼囹
忠三君
梧右
いささか感情的なこの手紙もかく子の気持ちを翻えすことができず 吟子のとりなしなどもあって甲府へ赴くことになった。
すぎし頃は大勢参上 種々ごちそう様に相成り有難御厚礼申上候 小子事も即日都 江着し松本氏家 江相尋四五日休足それより井上先生 江伺ひ御口上の趣委細申上候間左に御承知下され度候 小子事も井上先生方は首尾よく御暇相願候へば弥当月下旬には尚また甲府へ参り候心組に御座候 当時御当家は子弟一人も御座なく皆々やどへ引取り罷在候 付ては君の御事もとにかく心に懸り如何にしよろしきやと 昼夜心痛致居候御両親様とよく〱御相談の上早々御返事希いたてまつり候
可しこ
四月二日(明治八年)
吟子
角子の君 江
やがて、内藤萬寿子から、つぎのような歓迎の手紙が来て、いよいよ甲府へ向かうことになったのである。
身のやるせなきに取まぎれ 御けしきもうけたまはりはべらで過つる怠りはゆるしたまへ されど花の頃とちぎりしさくらも彼岸は雪とまがふまでちりはつるを見るも心せかれ まちかねて郵便のをのこをわづらはせはべる おそざくらもひと日ふた目をまちわぶる木末のさま 山高の大桜も此月の中ばならむと人つての便り国入のみ見むもをしくて 君たちのふりはえたまふをまつになむ おのれも久しきねがひ跡の月廿日はゆるしをうけはべりしが、未だ新地のふしんも最中 殊に悴も西京へまかりてるす志かはあれど おゆるしのうへはいつ迄すて置難き故 此廿日頃開校と定めはべりぬ 其まへに大さくらをはじめ所々の風景も見まほしう君たちをまちはぶるになむ 吟子はいかがせしや御親の佛事と申せしが 古郷にはあらで東京にいますときゝしが今も先の先生の所におるやおらずや わかりかぬればおとづれもせず 君去りたまはばよきにつたへたまへかし 御親の君たちを初め御家内の方々へよきにつたへたまへてよ 申度事あれど悴おらねば殊にせはしく何事も御たいめのふしと おむかへ迄
あなかしこ
四月八日(明治八年)、
ま須子
角子の君
御もとに
父君母君のうちともにきたまふらむとまつのみ
以上、わずかに五通の書翰を紹介するにとどめたが、それぞれの感情の起伏や消息をつたえており、当時の知識人の手紙文がわかり、明治初年の時代相もうかがい知ることができる。
この外、北海道の瀬棚からのもの、東京へ帰ってからのものなどが田中家に所蔵されている。
「文化」とは、「人間が学習によって、社会から習得した生活の仕方の総称」と辞書にはあり、さらに「衣食住を初め、技術・学問・芸術・道徳・宗教など、物心両面にわたる生活形成の様式と内容とを含む」と説明されている。
ひとくちに"文化"といっても、それはまこと多岐多様であり、少数者の手によって創造された昔と違い、いま大衆的なものとして、まさに花ざかりの観がある。
本号にとりあげた田中かく子への手紙文を見ていくと、その業績の一端もわかり、飯能に、しかも明治の世に、こうした知識人が居ったのか、と目を見ばる思いである。そうして、一地方の文化も一朝一夕に成ったものではない、と思い感懐一入である。
市史の編さんも、ようやく"通史"の執筆に入り、彼岸が見えてきた。思えば一つのことの掘り起こしにも、過去の壁はあまりにも厚く、多難な事業であった。しかし、これが後世、必ずや大きな役割りを果たすであろう、といつも言い合ってきたものであった。
(島田欽一)