このように相手が生き物だけに、量産をはかる場合隘路が多く、その打開の一つに一代交雑種の導入があった。雑種強盛の理論で、近頃言う「ハイブリッド」であろう。大正初期、始めは交雑種の名前はなくて掛合という言葉を使った。例えば「掛合白竜」といえば、白竜という日本種の雌蛾に支那種の雄をかけたもので、蚕種家が独自で、半ば暗中模索的に行った。飼育し易く良質の繭を得たのである。政府は規格統一上、原蚕種を国で管理することとしたが、一代交雑種についても指導に当たり、大正末年には全部が交雑種となって昔の固定種は姿を消してしまった。
交雑の仕方によって、色々の性格をもった蚕を作ることが出来る。それを固定することは困難であっても、強健で良質の繭を得ることが出来た。そこで片倉とか郡是という大製糸工場は、自社内に研究機関を設け、欧州種などを導入して糸量のゆたかな品種の蚕種を作り、それを特約養蚕農家に配布して、繭の買上げも約束した。製糸会社の目的は、すぐれた均質の繭の確保にあったから、ややもすると飼育に難点があって農家が泣かされた場面もあったようだが、蚕種代や桑園の肥料代を繭代で納められる等の好条件もあって、この特約組合は各地にひろまった。
いま一つは蚕種の人工ふ化法である。一化性の春蚕が生んだばかりの蚕種を、摂氏46°の塩酸に4〜5分問漬けるという、一見無謀と思われる処置により、その年の秋に発生させ、秋蚕として飼育を成功させたことである。これは桑さえあればいつでも養蚕が出来ることにつながり、飛躍的に産繭量が増大した。しかしナイロンの発明等による、絹需要の頭打ちから、昭和二けたに入ると、早くも養蚕業の先き行きは赤信号になっていった。
それから半世紀、現在は「桑があるのでもったいない、遊んでいるよりは…」という年寄りによって飼育されている場合が多く、蚕を知らない子供も多くなった。
本年一月五日の読売新聞によれば、「金食い虫、眠る生糸」の表題で、生糸が売れず、その過剰在庫の保管費が年間140億円だと報じている。
これは「産業」の一断面であるが、日進月歩に変化する社会の姿を正しく理解するためにも、市史が大いに役立つと思うので、動物編をふくめ、ぜひ一読をおすすめしたい。
1、文化財編
2、飯能の自然-植物編
3、教育編
4、行政編1
5、社寺教会編
6、民俗編
7、行政編2
8、近世文書編
9、歴史年表
以上9冊を発行してきましたが、今年度は既刊の「飯能の自然─植物」の姉妹編として「飯能の自然─動物」と「産業」が発行されることになりました。
いま、予約注文をとっている動物編のほか、既刊のものは市役所の市民課、市史編さん係、中央公民館、加治公民館、加治東公民館で頒布しております。
年表五百円その他千円
昨年の十二月一日号の本紙で「田中かく子と荻野吟子」として、吟子からの手紙文を紹介したところ、吟子の生まれどころの妻沼町の人が、さらにくわしくそのことを知ろうとして、二回も来飯されている。吟子に関しての資料は、そこでも稀少であるとのことであった。
歴史はそうした横のつながりを得てさらに解明されていくものであり、市史の編さんもまた例外ではない。
田中家には、北海道の瀬棚から、さらには失意のうちに東京に戻ってからの吟子の手紙が残されている。吟子が医学の道を選んだのも、女性の不幸につながる社会的差別を撤廃しなければ、ということが心底にあってのことといわれている。
田中かく子が、新聞を発行し、印刷業を起こしたのも、いわば勉学の総括としてのものだったと思えるのである。時、あたかも自由民権運動盛んなりし頃、かく子の思想的背景は果たして何だったのか。当時、ぬきん出て目立つ、この先覚者のことを思うとき、つぎからつぎと興味は尽きない。
編集委員島田欽一