市史編さん調査員島田欽一
戦後、といっても、すでに四十年を経ているが、市役所の周辺の変わりようは、目を見はるものがあった。
いま、市役所の階上の窓からあたりを見わたし、五十年前の風景を思い起こすとき、まさに今昔の感に堪えないものがある。
ふり返ってみれば、この変ぼうのきっかけは、戦時中の軍需工場にあったといえよう。
昭和十八年、小西六写真工業KKが、ここに軍需工場を建てるということで、一帯の農地四十ヘタタールを買収(同年八月登記)したのである。これはまさにぼう大な面積で、南の線は、いまの君塚医院から東へ県総合庁舎まで、その南側の道路を境界とし、東西の線はそれぞれその両端から北へ向かって、はるか青木・中居前の台地の奥深くまでであった。
当時、そこには一軒の家屋すらなく、いかに広々とした農地だったかがわかろうというものである。
ところが、間もなく終戦。いろいろのいきさつはあったものの、大部分は旧地主に還り、第一期工事地域の十三ヘクタール余を、当時の飯能町が所有することになり、今日に至っているのである。それは昭和二十三年八月卜八日、飯能町議会に於て、双柳字神明一番地の一外一〇九筆、四万〇二五九坪の買収が可決されていて、対価は百万円であった。(市史・教育編)
中山堀は藤田(藤太)堀ともいわれるが、地元では中山堀、西堀。また、中居では堀込の川と呼んでいたということである。
すでに昭和のはじめのことをくわしく知る人が少なくなってしまった現在、大方の人の記憶にある中山堀は、一中の運動場を北から南へ直線に流れていたのがそれのようである。
ところが、その校庭の中山堀は、昭和十九年の春、小西六写真工業によって、区域内をきまりよく改修されたものであって、それ以前のものは、多少曲りくねって、市役所あたりでは改修された堀より、やや東を流れていたものである。その状態を知るべく、古い地図を頼りに、現状へ当てはめてみたのが次ぺージの要図である。
これによって見るとおり、聖望学園の南を流れてきた中山堀は、一中のプールのあたりで大きく南へ折れ、富士見小の校舎の中央よりやや東あたりまでは、双柳と中山の境界をなし、市役所の庁舎のすぐ西を抜けていったわけである。
周知のとおり、市役所の地番は双柳一番地の一であり、その周辺の一中、富士見小、公民館も同番地であるが、これは町有地になったとき、双柳の字神明と字精進場の一部、それと中山の堀込・前田の一部を含めての合筆によるものであって、もともと一番地の一は、双柳地域の北東、つまり戌亥の隅の一筆であり、そこが地番の振り出しであったのである。
なお、字神明は一番から六十六番までがあり、旧地図によるならば、一中は大部分字神明、富士見小は、そのほとんどが中山の堀込分、市役所は字精進場に位置することになる。
双柳の稲荷神社から秀常寺の墓地の北を通り、やや狭くなるが、そのまま西へ進むと西武ガスの北側へ出て、東電からの通りへ突き当たるが、そこまでは昔のままの道すじである。昔はそれがさらに西へまっすぐに伸びて、いわゆる飯能通りであった。その道が中山堀へ差しかかるところ、そこに珍しく頑丈な石橋が架かっていた。現在のちょうど富七見小の校庭のあたりである。
余談になるが、飯能戦争のとき、警察のあたりに集結した官軍の本隊が、飯能へ軍を進めたのもこの橋を渡って行ったはずである。
昭和十九年の春、もう堀の改修によって不要になったからということで、双柳の村中のおてんまで、ここの石橋をとり外して村まで運んだことがあった。そのとき、積まれた大石の一つに「寛文九年武州高麗郡加治領笠縫村」と刻まれていた。なんでも村の古老の話では、笠縫に有力な人がいて、中山まで地続きにするために、川沿いを笠縫分として保有していたことがあったとのことである。