昔、この石橋のあたりに、堀込という一村があった。いまでは八高線の西側は新町となり、東側は旧中山分を含めて双柳一番地の一となっているが、中山堀の西側に、中山字堀込という小字があった。ここに村があったゆかりの小字名である。
堀込村を知るためには、まず新編武蔵風土記稿を見ていかねばならない。そこには中山村の稿のうちに次のように記されている。
「堀米・村の東にあり、今堀込と書す。もとは一区の小村なりしよし、其の村中に小名讐柳あり、然るに讐柳は土性悪しく、堀込は土性よきが故に、堀込の民戸を讐柳に移して、堀込をば耕栽の地となせり、是故に讐柳は戸数もいや増して一村となり、堀米は還って中山村の小名となり、又今に僅かに民戸三軒を遺せり、その昔、堀込の一村たることは山王円鏡中の銘文を以て證とせば、土人の伝ふる如く是なるべし」
この三軒家は明治の代まで残っていたとか。もっとも風土記の編さんは文政年問(一八一八─一八二九)であり、いまから百五・六十年前のことなので、それもうなずけるというものである。
また、このことは明治の文献「武蔵国郡村誌」中にも記されているのである。
この堀込村、いまの富士見小と市役所の敷地あたりに存在したと思われるが、さらにそれがどこだったかをつきとめるためには、次の文書によらなければならない。これは寛延三年(一七五〇)に書かれたもので、青木の新井忠治さんのところから見つかったものである。
双柳初リノコト
本双柳ハ下ノ横町通り、飯能通り、川通リヲ本双柳卜、言フ。ソレヨリ今ココヘ引候ハ、八王子瀧山二城アリ、天下ノ城也、ソノユエ上州、瀧山ヘノ通リニモ成ルベクト存ジ、ココヘ引候ト云フ。其ノ時ノ城主は北條氏直弟氏輝城主ノ時、馬継ニモ成ルベクト思ヒ、本双柳ヲ今ノココヘ引ク─以下略─
この文中北條氏輝とあるは、氏照ともいい、同一人である。とにかく、その後文からすれば、「双柳へ引候」というのは、永禄年中(一五五八─一五六九)であることは間違いないと思われる。
風土記には「双柳は堀込村の小名であった」と書かれていて、そこは「土性悪しく」とはいうものの交通の要衝であったために引っ越したというものであろう。
また、この文書には、「三軒家」についても見ることができる。
堀込三軒家之事
堀込三軒之内、東川バタニ瀧田徳左衛門卜云フ人アリ、其人ノ屋敷二山王アリ、其ノ山王ノ内陣ノ御ショウダイト云フ者二書付アリ、武州高麗郡加治領堀込村山王宮ノ内二釈迦牟尼佛ノ像アリ、其別当善養坊ト云フ。
永禄六癸亥歳卜一月吉日トアリ、─以下略─
なお、ここには別に観音堂もあり、それを「双柳へ引寺二致シ」とあり、双柳の村のはじまり、寺の創建についてのいきさつがよくわかる。
いずれにしても、堀込村の人たちが、双柳へ引き移ったというのが永禄年中ということであれば、いまからさかのぼること四百二十数年も前のことである。時、あたかも天下麻のごとく乱れたという戦国の世であった。
草深い片田舎の、この中山堀のほとりに住んでいた人たち、それはまるで世をはばかるような、ひっそりとした暮らしだったに違いない。堀込という地名にしても、何かいわくありそうな気がする。そういえば、毛呂山町にも、毛呂氏の館趾の近くに堀込という小名が残っているそうで、ここの堀込も中山から発する江戸街道の近くに当たり、中山館と関連して考えてみるとき、夢は果てしなく広がるというものである。
堀込の人たちが双柳へ移ったあと、三軒家が残ったとはいうものの、小さいながらも一村が消え去り、広々とした畑地となって永い年月が流れたというものである。いま、そこに家々の人が変わってきた変転の歴史を目のあたりにする思いである。
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