調査員島田欽一
私がはじめてこのことに気づいたのは、戦後間もない昭和二十五年のことであった。
当時の「飯能町メガホン」(いまの広報)に、「新飯能町誕生前の各地区町村長」として、旧精明村と旧元加治村の村長名が、その就職、退年月を明記して掲載されていたのであった。
それを見たとき、旧元加治村の初代村長は、明治二十二年五月就職としてあり、旧精明村の初代は小久保孝三郎、その就職が明治三十四年七月となっていたのである。
いうまでもなく、精明村が誕生したのは、明治二十二年であり、当然、そこに村長がいなくてはならないはずである。この十二年間の空白、一体これはどうしたことなのだろう。
私は早速、そのことを、当時の精明支所へ行ってたずねた。だが、その答えはまったく不得要領であった。まさにミステリーそのものである。しかし、それ以上突っ込んでたずね当てることの方策もわからぬまま、年月が過ぎてしまったのであった。
昭和四十年代は、世の中いよいよ安定し、戦時から戦後へかけての空白をとり戻すかのように、挙って郷土史に目を向けはじめた頃であった。
飯能でも、四十五年に「飯能人物誌」が刊行され、やがて四十九年には「市史」の編さんもはじまったのである。
そうなると、また精明の村長の疑問が、私の頭の一角を占めるようになったのである。こつこつと暇を見つけてはの資料あさり、寺や神社、これは、と思う家などを見せてもらうその中に、何と空白期間の村長名が出てくるではないか。それは寺の過去帳にはさんであった「埋葬認可証」、また、「土木工事補助申請書」などから、.「精明村長・新井鶉治郎」「精明村長・森玄吾」というように、その証とすべきものが、いくつも見当たるのであった。
市史の編さんがはじまって、すぐのことであった。現在、市に保管されている、旧精明村の「村長・助役名簿」なるものを見せてもらったところ、意外や、そこにも明治二十二年から同三十四年までが、まったく記載されていないのであった。
思うに、これは名簿作成の時に、以前のことについては、確たる記録もなく、わかるものだけを記入しておいたものらしく、結果として、四人の村長と六人の助役が村の歴史から消え去ってしまったということである。
そうしたことから、「飯能人物誌」にも、初代村長、西村周左右は、なんとか取り上げられたものの、三代、四代に至っては、まったく触れられてもいない。書く術もなかったということであろう。
そうこうするうち、市史も資料編「行政」にとりかかることになった。もうこうなると「待ったなし」である。
編さん室で、県の資料から不明だった村長名を確認してくれたが、問題は例の「村長・助役名簿」である。この際、それを完全なものとしておかなければならない。その為には何日かかるか、私は度胸を据えて県立文書館へ出かけた。
これこれ、とわけを話して頼み、それでは、と出してもらったのが「村長・助役認可願」の綴りであった。
ところが、それが明治二十二年から同三十四年までとなると、ぽう大な冊である。まして全県ひとまとめで用紙もまちまち、一日かかって村長一人、助役二人を引き出しただけであった。
そこで次の日には、「埼玉県報」の綴りの閲覧を申し出て取り組んでみたが、十二年間となると、分厚いのが三十冊ぐらいはあったと思う。しかし、これはよく整理されていて、目次も完備しており、彙報欄の県庁事項を指向すればよい。見ていくうちに、たしかにあった。
○町村長助役認可、高麗郡外各郡町村中其町村会二於テ町村長及助役ヲ選挙上申セシヲ以テ左ノ通り認可セリ
高麗郡精明村長西村周左右
同郡同村 助役青田勇三郎
こうして県報綴りに目を通すこと四日間、なんとか十二年間の村長と助役の就、退職の年月日を明らかにできたときは、何にも増して嬉しかった。
早速、県報の写しを証とし、生年月日は確たることのために、それぞれの子孫の方の委任状によって、「除籍簿謄本」を添え、「精明村村長助役名簿」の未記載分を埋めてもらうべく、市の当局に申請、この問題に終止符を打ったのである。
不明だった期間の村長・助役は次の通りである。
就職 | 退職 | 氏名 |
---|---|---|
明22/6/1 | 明25/6/30 | 西村周左右 |
〃25/7/8 | 〃29/1/31 | 山崎兼三郎 |
〃29/2/13 | 〃33/2/12 | 新井つる[#【編者注】"つる"は偏に「高」を、旁に「鳥」の字を書く。以下該当字を《つる》と記載する]治郎 |
〃33/4/26 | 〃34/5/26 | 森玄吾 |
明22/6/1 | 明25/4/2 | 青田勇三郎 |
〃25/4/5 | 〃25/4/27 | 栗原市五郎 |
〃25/6/1 | 〃28/5/19 | 半田忠丘ハ衛 |
〃28/6/4 | 〃29/2/12 | 新井《つる》治郎 |
〃29/4/13 | 〃32/3/14 | 小久保孝二郎 |
〃32/4/15 | 〃33/4/25 | 森玄吾 |
さて、ここで紙幅の許す限り、四人の業績を追っていくことにするが、このことは、危うく歴史から消え去ろうとした人たちを紹介しておかねば、という、いわば追善の意味もこめてのものである。
西村周左右
明治十七年、連合戸長制がしかれるや、彼は小久保村連合の戸長を、十七年七月から二十年三月まで勤めた。この連合戸長は人選難だったとみえ、発足当初、たったの六日間ではあるが、飯能町から小能正三を迎えて連合戸長としているので、西村周左右、正確には二代連合戸長ということになる。
就任後、ただちに着手した統合小学校が、建築途中で台風のため倒壊した事件があったことは、学校誌にも記されているとおり、大きな事件であった。
明治二十年三月から、同二十二年三月まで笠幡村連合(現川越市)の戸長を勤め、二十二年町村制編制によって、同年六月初代精明村長となり、二十五年六月までその任にあった。
彼はその後、明治三十二年十二月から同三十九年九月までの、ほぽ七年間、元加治村(現入間市)の村長となっている。
これは、その政治的手腕を高く買われたということの外になく、いかに傑出した政治家であったかがわかるというものである。その子孫、西村そでさん一家、小久保に健在である。
山崎兼三郎
市内、中山の人である。
明治二十二年六月、飯能の助役を退職ということが、県報にも見えるので、短期だが初代助役だったと思われる。
明治二十五年七月、精明村長として迎えられ、同二十九年一月までの三年余、村治に尽くした。
その後、奥富村(現狭山市)の村長を勤めたなど、詳細は「飯能人物誌」にくわしい。
その子孫は現在、川越市に住していると聞く。
新井《つる》治郎
その名の「《つる》」(つる)という字は、字典にも見当たらないが、鶴は高貴な鳥であるから、としてのことらしい。明治二十八年六月、助役。同二十九年二月に村長。時に数え年三十三歳という若さであった。 そうして三十三年二月までの四年間、村政に敏腕をふるい、三十五年六月、あっけなく世を去った人である。
子孫の話によれば、この人、大隈大学(早稲田の前身で、当時は東京専門学校)を出て、二十六歳で役場に勤めはじめたとのことである。
かの明治の大政治家、星享に心酔し、もっぱら国事に向けて奔走していたとかで、その家系は、代々が名主であった、近郷切っての素封家の身代も、彼の短い生涯のうちに、殆んど使い果たしてしまったといい、よほど政党運動に注ぎこんだらしいということである。
明治三十四年、星享も凶刃にたおれたが、この《つる》治郎という人、さらにこの世に生を得さしめたならば、どんな政治家になっていたものか、惜しまれてならない。
子孫はいま、双柳のスーパー新井屋として隆盛である。
森玄吾
その墓誌にも「君が半生、ソノ心力ハ実二公共事業ノ犠牲二供シタルモノトイフベク」とあるが、若くして機業(二子織)を起こし、出でては村会議員、飯能高等小学校組合会議員などにも名を連ねている。そうして明治三十二年四月、助役、翌三十三年四月に村長に就任している。だが、不幸にも病いを得、墓誌にも「劇務二当タリ難ク退隠」とあるが、その若かりし日の業績は数うるにいとまないほどである。
これは余談になるが、そうした血を受けてか、その次男の与之助という人、小川町の旧家に婿入りし、小学校の教員を振り出しに、県内各地の郡長を勤め、日本赤十字社埼玉支部の発展に功があったという。
これは去る昭和五十五年、県立博物館で「郷土人物展」を催した際にも、大きくとり上げられたほどである。
この森家、芦刈場の前通りの東端に、白壁の土蔵が目立つ、森綾子さん一家がそれである。
(文中敬称略)
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