飯能市史一落穂集(3)
大河原亀文翁

大河原亀文翁

自ら「田舎の芋掘り」などと称し、当代一流の学者や儒者などを徹底した筆致で椰楡した気骨の人、それが亀文であった。

高麗郡飯能村(現飯能市山手町)の名主役であった大河原太郎右衛門の二男として、安永二年(一七七三)に生まれ、文左衛門と命名された。

長じて薬舗「亀屋」を開業して分家し、家業のかたわら国学等の修業につとめた。

亀文という雅号も、この家号からとったのではないかといわれ、この外に包章、夷彦、非虚陳人、賤乃屋などの号を用いて詩作、批評、颯刺など、その文章はすこぶる多彩であった。

とくに有名なものは、当時一流といわれていた学者や文人を鋭い筆鋒で批判を加えた「学者必読妙々奇談」であろう。

飯能という片田舎で、薬を商売としながらその交友関係は広く、近在はもとより、江戸一流の文士とも交際していた。

つぎに翁に来た手紙文をあげてみよう。
以別紙奉申上候
先達而参上之節進覧ニ入候一小冊之中二茂認メ候通リ拙妄選仕候
故田中翁可集か多みの梅末序文無之候二付奉頼上候
御繁多之折柄ニ者御座候共何卒御染筆之程奉希候
別文ニ申上候通リ何角時節二付追慕頻ニ難止奉存候二付而も彼歌集々序跋共
友人共二乞候而全一冊ニ仕度朝タニ存居候事ニ御座候
先者右御頼申入度如此ニ御座候
余者貴顔之時与申残候 頓首
壬三月十日
林為三郎
拝上
大河原大人
玉机下

(大意─別紙で申しあげます。
先だってお伺いしたときお見せしました小冊の中にも書いておきましたように、私が適当に選びました故田中翁のかたみの集は序文がついておりませんので、お願いいたします。
別文で申しあげたとおりこのごろ追慕の念やみがたく友人達とも一緒に全集を出したいので、序、跋ともにお願いしたく存じます。
くわしいことは拝顔の上申しあげます)

文中、田中翁とあるのは、国学者で歌人でもあった田中正勝(一七六〇〜一八二九)で、亀文の没年(一八三一)と考え合わすと、この文書は一八二九年から一八三一年までの三月十日ということになる。

差出人は赤尾村(現坂戸市)の名主で、国学者、歌人でもあった林為三郎(一八〇四〜一八六二)である。

いずれも亀文と交遊関係にあった人で、亡くなった正勝を悼み、追慕して、故人の歌集をつくろうというのである。このとき亀文も最晩年をむかえていた。

師としても、長老としても、序文を書くに相応しい地位と学識をそなえていたのであろう。

羅漢山に遊ぶ記
む月十日者可里羅漢山て遊ふ記 井上千頴
登し多知可へ留春ハおのつ可ら心も空那る耳高嶺の霞王けて干里の春も見者やさん以ささ方へと友垣尓いさ那暮れて羅漢山尓登りぬ
五百重山の八重霞尓こもり多るハさら尓もい者須者
山のつゝらを利ハけちのう見王多されてつま木おひ行翁可たつき能うらゝけき春日に可ゝよへるもいとを可し
ふもとハ入間の流のミ那可ミ八十くまにいりま可里て末と本しろき尓土橋ひとつ

編さん日誌

1月
9日編集小委員会 地名・姓氏編
17日編集委員会 地名・姓氏編
21日編さん委員会 地名・姓氏編
2月
1日地名・姓氏編入札
5日埼玉県市町村史編さん連絡協議会の研修会へ事務局員出席
19日編集小委員会 地形・地質編
22日編集小委員会 地形・地質編
3月
5日編集小委員会 地形・地質編
12日編集小委員会 地形・地質編
19日編集小委員会 地形・地質編
27日編集小委員会 地形・地質編

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