王多せる尓阿るも寿そ引行ハ以つれの人のむ寿め尓可いとゆ可し
可ゝる旅の空尓ハひとり行子可宿可らましをともよミてまし那といへ者人ニ王らふ
可くて可那多こ那多見め具るに可しこき岩加と尓八十ま利六つ能ミ佛の可多をまさ目耳ミまつる可こと
ゑり多る阿るハ鏡な須平けき石阿り
阿るハ蝦の可多知なせる石阿り
そハ大空耳うそふきてまことの物てこと那るへうも阿らぬて
谷ふ可く鶯の本の可尓那き多るハさらに春秋をひと時耳見る心知志て
以つれ可う多をといへ者可ゝるを利耳も多してのミやそと人々可しら可多ふくる時
夕風さとふき亭ふもと寺の鐘入相をつくる尓人々阿可ぬ物可ら又阿くる日能まとゐを山松耳知きりて立可へり恕

(大意─年立かえる春は、自ら心も空なるに高嶺の霞をわけて千里の春をみよう、いざ出かけよう、と友に誘われて羅漢山(現天覧山)、に登る。
五百重山の八重霞にこもりたるはさらにもいわず
山のつづら折りはきわだって見渡されて、爪木(薪)負い行く翁の生業のうららかな春日に耀よえるのも大変愉快である。
麓は入間川の流れの水上八十曲に入り曲がりて末遠白きに土橋ひとつ渡せるにあるも裾引き行くはいずれの人の娘であろう大変床しい
かかる旅の空には独り行く子が宿借らましとよみてましなといえば人は笑う
かくて彼方此方見めぐるに賢き岩角には十余り六つの御仏の方をまのあたりに見まつるがごとし
彫りたるあるは鏡なす平らけき石あり
或は蝦の形なせる石あり
それは大空にうそぶきて まことの物で異なる可う(?)もあらぬで
谷深く鶯のほのかに喘きたるはさらに春秋をひと時に見る心地して
いずれからうたをといえば かかる折に黙してのみやぞと人々頭傾むける時
夕風さっと吹きて 麓寺(能仁寺)の鐘入相をつくり 人々倦かぬものから また明くる日の団居を山松に契りて立帰りぬ)

井上千■(註:偏の上部は"士"・下部が"示"、旁がおおがい)(一八〇四〜一八八六)は、入問都石井村(現坂戸市)の名主役を代々勤める家柄に生まれ、国学者として名を成した。

はじめ千■(註:偏の上部は"士"・下部が"示"、旁がおおがい)と号したが、後には檉亭、淑蔭などの号を用い著作し、通称多蔵の名で名主役を勤めていたという。

この文章は二十歳代の千■(註:偏の上部は"士"・下部が"示"、旁がおおがい)が師とも仰いだであろう飯能村の亀文を訪ねたときのもので、誘われて天覧山へ登ったのであろう。

十六羅漢、鏡岩、入問川、橋などの記述があり、百六十年ほど前の天覧山周辺のたたずまいを彷彿とさせる。

天覧山頂で聞いた能仁寺の晩鐘が、四囲にひびき渡る春まだ浅い飯能の町並で、人々はどんな生活をしていたのであろうか。

当時能仁寺は、黒田家の菩提寺として飯能周辺に二十ヶ寺の末寺をもつ大寺であった。

亀文は自らもあちこちへ出かけ見聞を広めたようであるが、そのたびに記録を残している。

その中から興味をひく記録を紹介して、この短い亀文紹介の筆を措くこととする。
(文章読み下し)

享和二年(一八〇二)六月
永田村政右衛門と申もの隣家名不知不尋の井中に怪獣出る事あり
如何様四五日之程も井中に籠り居候て魚を取喰候様子にて中ほど甃のぬけたる穴へ入り隠れ又出て魚を取候事と見へ候
主なる男憤りて其出て魚を取らんとするを窺て竹鎗をもって突といえども一向不透
彼怪獣いかって井より飛出し主に飛かからんとす
主すかさず鎌をもって脊骨中をおもひ打けれども又不傷猶飛かからんとする故竹鎗取なをし口中に突込直に殺しぬ
主餘り口惜しさのまゝ川へ持行捨けるよし
拙不見残念 店内庄助
同高麗伊八と申もの見る則右両人咄候覚
形大成猫ほどにて尾短し
鼻の先口辺甚野猪に似たり
惣身毛如針皮甚あつし
四足各爪五本但鷹の爪に似たり
指の股ふきれず惣じて黒赤色

文化十四年(一八一七)九月七日
野田村圓照密寺現住英戒寂
同八日に埋葬するため古卒塔婆の傍を二尺ばかり掘ったところ石板があり、それを除くと銅壼が出る。
中に所謂金獅子三俗号目貫者也基他 有
然るに役夫等奸計を用い川越某家へ売却其価五両
その後川越侯より五人の役夫が責任を問われる
同二一日隣寺相議して永く圓照寺の什物とすると言

亀文は多くの記録を残し、天保二年十月七日逝去し能仁寺へ葬られた。戒名は、櫻雲包章斎文宗真華高士という。

編集後記

○市史編さん事業も、いよいよ大詰にきた。「編さん日誌」を見ても、連日のように「地形・地質」編の編集小委員会、ようやくこれで資料編の全編完成。あとは総まとめとしての「通史」の完成をまつのみである。

○今回、編さん室でとりあげてくれた大河原亀文の手紙や記録は、まことに貴重なもので、特に終わりの方の野田の円照寺にかかわる項など、興味深いものである。歴史は、えてしてこうしたものから事実が明らかになることが多いものである。

○いま私の手許に、裏打ちしなければならないようなボロボロの記録、半分焼けた昔の日記などがあるが、前者は日露戦争のときの大麦供出の状況の記録であり、後者はそれによって、昭和のはじめの農産物の価格を歴然と見せてくれるものである。

また、「質地証文之事」などは、徳川幕府が土地売買を禁止した、その裏をいったもので、その奥判(名主の署名・押印)から、当時の村の名主の名が判明した。この一枚の紙片が、そこに事実を語り、歴史の証であることを改めて思い知ったのであった。

編集委員 島田欽一

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