他人に誇らざる事朝夕心掛修行たるべき事
右之条々多年不浅依為執心今般令免授■(註:冠が"己"、脚が"十")自己後當流執望之輩於有之者神文血判之上指南可有之者也免帖 仍而如件
比留間與八郎
源利恭㊞
比留間半造
源利充
比留間良八
源利衆
比留間國造 源利暠
西川清輔殿
以上が切紙の全文であり、甲源一刀流は甲斐源氏から名づけられたともいわれる剣術の流派である。特殊な用語などが出てくるため理解できない部分もあるが、大意はつかめるであろう。
これが書かれた時期は幕末のようであるが、当時梅原村は一橋領であった。道場主の利衆をはじめ利暠や一橋領(飯能市域では大河原、下畑、上畑、下直竹、唐竹、原市場、赤沢の七か村)の門弟の幾人かは、一橋慶喜(のちの十五代将軍)に随って京都へ登り、警護や雑事に従ったという記録も見える。
西川清輔の事蹟は定かでないが、この文書を借用した三社・西川家の六代前の当主西川清一郎であろう。
比留間道場の弟子は、ひと口に四千人ともいわれ、飯能市域では吾野、東吾野、原市場などの山間部の人達が多かったようである。
写真にある氏名も、多くがそれらの地域の人で、これらの中には村の重立ちになった人の名前も見える。
ここには、およそ三百名ほど名を連ねているが、幕末の不安定な政情下、慶応二年(一八六六)には、武州一揆も起こったりして、揺れ動く人心の支えとして、この人たちの存在は大きかったにちがいない。
一方、権田直助や井上頼国などの国学者も、よくこの地方に来たって子弟の訓育に当たり、勤王家、小川松園、香魚父子などを生んだ。この狭い地方といえども、勤王、佐幕派と対立する双方へ、それぞれ参画する人がいたのも興味あることである。
そして、慶応四年五月二十三日に起こった、いわゆる飯能戦争は、本陣を天覧山麓の能仁寺に置き、市内各寺院に駐屯していた振武軍に対して、新政府の軍が総攻撃をかけるという、飯能の市街地を舞台とする戦闘であった。そのとき、寺院はもとより、民家のほとんどを焼失してしまった。
惜しまれることは、それまでの永い歴史の中で、営々と築いてきた富も歴史遺産も、一朝のもとに灰儘に帰してしまったことである。その大きな被害に対して、新政府から復興のためめ補助があったという記録も残っていない。立ち直るには大変な苦労だったにちがいない。
動乱の中のこの地方の剣士たち。時移り、世は変わっても、いま、この近在に老若、数多くの剣士たちの輩出をみるのも、あずかって大きく影響しているというものであろう。
本号には、編さん室によって「比留間道場の切紙」(免許目録)をとりあげてもらった。
甲源一刀流といえば、かの伊藤一刀斉景久の一刀流の流れを汲み、明和年間(一七六四─七二)、逸見太四郎によって一流を称えたものである。
その系譜をたどっていくと、正統として比留間利恭、同利充、同利衆、利暠兄弟の三代の名を見ることができ、いかに剣の名手であったかがわかる。
明治の夜明けを迎えるには、幕末における、その胎動は、きわめて永く、混乱を極めていたことは周知のとおりであるが、そうした中にあって、剣の道を志す者が多かったのもうなずけることである。
史書によれば、安政三年(一八五六)「幕府は講武所を設け梅原村の比留間利充等剣法師範となる」とある。写真の二代目当主がそれである。
いま、この近郊にあって、剣道はますます盛んであり、少年剣士たちは、県の大会などで名をなし、老年者の段位取得も数多い。まさに歴史的風土というものであろう。
編集委員 島田欽一