この高萩の万次郎、いろいろに誤り伝えられ、まるっきりその人物像がはっきりしなくなっていたのを、数年前、前記の増田さんによって、次の項の並柳清五郎とともに、出所など明るみに出てきたのである。
慶応二年(一八六六)の武州一揆のとき、「双柳には親分がいたので、村内へ指一本触れさせなかった」ということを聞いたことがあるが、年齢からしても万次郎の弟分であったと思われる。本名は都築竜蔵という。
次郎長も一目置いていたということで、明治四年、たまたま清水へ出掛けていて、逗留先の次郎長のところで亡くなっている。聞くところによると「碁を打っていて……」ということであるから、脳卒中ででもあったと思われる。
いま、清水市の梅蔭寺を訪れると、次郎長はじめ、大政、小政など、数人の身内の墓石が並んで一画をなしているが、次郎長が建ててくれた清五郎の墓石は、向かって右手の奥に「乾叟清元上座、明治四年正月十一日、武州、俗名清五郎」としてあって、その没年月日も双柳の秀常寺の墓と一致している。
寺方の話によれば、その戒名からして、「次郎長もよほど厚遇していたものと思われる」とのことであった。
都築家に残る次郎長とその妻お蝶(三代目)の写真は、日本での写真技術の始まりの頃のものとしても貴重だとされている。
なお、万次郎と清五郎の妻は、いずれも清水の人であった。
本名は嶋田増太郎、いまの大字飯能の人であった。
浄水場の登り口の右手に嶋田家の墓所があるが、「侠客嶋田増太郎之墓」として、りっぱな墓石が建てられている。明治三十四年五月十五日没とあるが、裏にまわってみると、「浪風もあらしも無事な我が身にてけふはわかれぞ五月雨の旅」と辞世の歌が刻まれており、この人の波瀾に富んだであろう人生を思うはさりながら、刻まれた文字のすばらしさに、訪れるたびに私は彽徊久しきに及ぶのである。
この人が施主となっている墓は、双柳の清五郎のほか、下赤工にもあるとかで、情の厚い、義理堅い人であったと思われる。
つい先日、私はちょうどこの原稿に取り組んでいるさ中、はからずも静岡の植田さんという人の来訪を受けたのであった。
その人の手にしているのは、明治二十六年六月十二日、清水次郎長の葬儀の際の諷経帳(香奠帳)であり、その日、飯能から三人の人が駆けつけているというのである。見ればたしかに、「金拾円也、飯能、嶋田増太郎、行平仙太郎、細田和十郎」と明記してある。「次郎長をとり巻く人たちのことが知りたくて」という植田さん、聞けば埼玉へ来て今日で三日目だという。
そこで早速、私としては勝手知ったことでもあり、本郷の嶋田さんのお宅へ案内し、いろいろな話を聞いたりして、その墓処も見せてもらったのであった。
そうなると、諷経帳に記してある行平仙太郎、細田和十郎という人のことも知りたくなるというもので、その夜、心当たりの方々へ電話してみた。すると行平仙太郎という人のことは、すぐ判明したのであった。
そこでただちに長沢の行平さんのお宅へ赴き、その墓石を見せてもらったところ、台座に近郷近在の仁侠につながる人たちの名が列記してあり、冒頭に、飯能嶋田増太郎、次に高麗細田和十郎とあり、はからずも、それによって細田和十郎という人は高麗の人ということがわかったのであった。
日を置かず、私は電話番号簿を頼りに、旧高麗村の細田姓の家をたずね歩いてみたが、これというところへは行き当たることができなかった。
こうして、一枚の相撲番付から発して、私の探訪の輪はつぎつぎに広がっていく。
慶応三年といえば、その年十月には大政奉還という、徳川三百年の礎も、ようやく崩れ去ろうとしているときである。
そうした騒然たる世情をよそに、ここ武蔵野の一角では、まさに太平そのもの、江戸相撲を招いていた。当時の人心の動向など、思いめぐらして興味深いことである。
9日 | 仲町・町田昭好家文書調査 |
23日 | 所沢市・和雅名家文書調査 |
30日 | 資料編Ⅻ(地形・地質編発行 |
1日 | 通史編の打合わせに事務局員東京出張 |
25日〜 | 資料編Ⅺ・Ⅻ 各自治会へ搬送 |
24日 | 本町・小能啓佑家文書調査 |
○江戸時代の末期、幕府の勢力もようやく衰えの兆をみせ、とって代わって商人が拾頭、経済の実権を握るようになった。治安の乱れがくるのも当然なことで、そこへ登場してくるのが、いわゆる仁侠の徒であった。
時としては権力に逆らい、仲間同志のいさかいはあったが、庶民に頼られる存在でもあったようである。その是非は別として、時代の流れの中に生まれた、ひとつの渡世の道でもあり、講談や浪花節では、さまざまに粉飾されてきているが、大方は歴史の中に埋没してしまっているのである。
○市史の編さんも、すでに通史の執筆がはじまっており、大詰にきているが、乏しいながら、記録をたずねて昔を究明し、今を正しく後世に伝えることの意義は極めて大きい。
今回の探求記事にしても、百年という歳月の重みを身にしみて感じたことであった。
○郷土館の建設も、ようやくその緒についた。市史の完結を目前にしての歩み出しも、時宜を得ているというもの、市の歴史の殿堂としたいものである。
編集委員 島田欽一