「温故知新」とは、すでにいいふるされた言葉ではあるが、依然として先人に学び、未来に向かって発展していこうという私達の生活態様には変わりがない。
飯能の先人達も、過去を調べて未来をつかみとろうと努力したことは、あながち他市町村に遅れをとるものではなかった。
武蔵一円を対象とした地誌に「新編武蔵風土記稿」があるが、これは江戸幕府が多年の調査を重ねて編さんしたものである。
文化七年に始められたこの事業は、文政十一年に完了し、天保元年に幕府へ提出されたという。じつに、二十年の歳月をかけた大事業であった。
その内容は、個々の村の歴史、所蔵古文書、寺社等の調べから、当時の生産、生業に至るまで網羅し、執筆されている。
飯能が属していた高麗郡の部は、文政五年に上梓されたようであるが、文政三年四月付で「地誌編さんのため千人組同心栗原左衛門が高麗郡へ赴く」旨の文書が、双木利夫氏宅から発見されたところからして、その前後一〜二年をかけて調査が行われたものであろう。
明治になってこれが活字化されたことにより、歴史研究者必見の書となったが、これが飯能地方歴史研究書の嗜矢といえるものである。
明治になると、新政府の内務省が所管して、全国的に皇国地誌の編さん事業が始められた。
各県から編述上申させた資料は、そのままでも貴重なものであったが、なかなか編集が進まず、ついに大正十二年の関東大震災のとき焼失してしまい完成をみなかった。
幸い埼玉県のものは、副本が県庁内に保管されていたことから難をまぬがれ、.昭和二十八年に「武蔵国郡村誌」として出版され、前書とともに斯学研究の必見書となっている。
この皇国地誌を上申するときの控文書がいくつか残存しており、村によっては「村誌」という形でまとめた村もある。
以上の二書が飯能地方も含まれた地誌であるが、つぎに飯能地域のみを対象としたそれを、年次を追ってみていこう。
明治四十一年発行と思われる「統合図二関スル資料」という飯能高等小学校と記された書物がある。「統合図」という文字が何を意味するものか不明であるが、内容はまさしく歴史であり、その目次は「飯能町ノ位置、地勢、市街、黒田直邦ノ墓、能仁寺、智観寺、飯能戦争、林産物、戸数人口」等、三十九項目にわたっている。また、飯能高等小学校の先生方が調査・執筆に当たったとみえ「飯能町植物分布概説(粕谷准訓導ノ調査)」などという項目もある。
これが現在までに発見された飯能地域を対象とした史書で、体系的に編述されたものの初見である。
その後、大正期に編さんされたものはないが、歴史研究は大いに盛り上がりをみせる。
それというのは、大正七年七月に設立された歴史研究団体「武蔵野会」によってである。
東京大学教授で斯界の泰斗であった鳥居龍蔵を幹事長としたこの会は「武蔵野の自然並に人文の発達を研究し、其の趣味を普及するを目的とする」とし、考古、人類、歴史、自然科学などの学者を中心として、武蔵野の踏査、講演会や談話会の開催などを主な事業としていた。
この会を母体として、多くの郷土史家が輩出したが、飯能地方で会員となった人は、吉田筆吉、小川清、坂本喜一、新井重晴などであった。
そして、設立の翌月、すなわち八月三十一日、九月一日の両日、飯能第一尋常高等小学校で講演会を開いている。
「十時、吉田筆吉氏の紹介にて幹事長鳥居氏の簡単なる開会の辞に初り
武蔵野研究の意義 大類伸君
武蔵野合戦 渡辺世祐君
武蔵野開墾の歴史 藍田伊人君
古代の東語 山田孝雄君
の講演あり、六時一同満足げに明日を期して散会した。当日の会衆約三百名
第二日は午前八時半より昨日に引続き左の講演があった。
武蔵野の農村 小田内通敏君
江戸時代以来の桜 三好学君
太古の武蔵野 鳥居龍蔵君」
この後、高麗村の見学会を行って終わっているが、武蔵野鉄道の開通後間なしに、東京の一流文化人が来飯した。その時の聴衆三百人。人々はそれを聴いて、どのように受けとめたものであろうか。
当時この学校の校長であった吉田筆吉は、町の助役などにも