火柱の怪異というものがある。
村境や田畑に立ち、倒れた方角に火事が起きると言われるもので、怪異・妖怪伝承データベース
に依ると全国で見られるようである。
これがかつての毛呂村─いまの毛呂山町でも起きていたという記事が以下になる。
以下、個人名は伏せ字とし、また句点を補った。
昭和36年(1961年)7月20日 東毛ろのお化畑と処刑場の因縁
怪奇夏の夜話
東毛ろのお化畑と
処刑場の因縁
毛呂山町の東毛呂地区は最近加速度的な発展振りをしめし地価は坪当り四千円、五千円に昂騰し、 逐次宅地化されて来たがその昔通称御伊セ原と呼ばれた時代は狐や狸が出ぼつして 夜ともなれば人つ児一人通らぬ淋しい所だったと云う。 現在の東毛呂駅に近く「お化け畑」があつた事は現存の古老はいずれも知つているはづである。
この畑はSさんの所有で小作地だつた。 長い間に小作人は幾人もかわつたがこの畑の耕作者の家庭には必ず凶事に見舞われ 不慮の災難があつたり病気したりするので小作人も長続きせず、しまいには誰も小作に借り手がなくなったので Sさんは遂に出雲伊波比神社に奉納してしまつたと云われている。 この因縁畑は前にのべた様に「お化け畑」と云われただけあつて、 しばしば、かい異が現れ提灯の化物がよく出ると伝えられた。
之について同地の■■■■老人(■■屋■■店)は次の様に語つていた。
「私が若い頃の事で五十年も前の話です。 友達と二人で夜遊びの帰りでした。例のおばけ畑の方がくに当つて丈余の火柱が挙つたのです。 真暗闇にいきなりボオーと大きな火のかたまりの長い柱が立つたのだから驚きましたよ、 思わずゾートしてみているうちにそれが東の方へ崩れたんです、 それが「筆屋の方がく(故■■■■元県議の家)なのだ。 昔から火柱が立つて崩れる方に火事がよくあるという事を聞いていたが、それ以来筆家ではいつも大事には至らなかつたが、 しばしば失火騒ぎがあつたので火柱の予告に驚いたものでした。 このはたに矢田部黒麻呂のはかがあるが之の因縁だろうと云っていた。
お化け畑はSさんの所有地で誰が小作しても必ず災難があるので 結局誰も作り手がなくなつたのでSさんが神社に奉納した訳です。 昔からお伊勢ヶ原は、かい異の多い所で私が始めに■■屋を始めた時は 原中の一軒家のようなもので屋号も■■屋と付けた位でした。 昔毛呂豊後守時代から今の東毛呂には囚人小屋や処刑場があつたもので 明治初年にはここで処刑が行われた相です、 又獄門はたと云うはたがあつたが何んでも今のY字路附近が処刑場の跡らしいんです 東武鉄道の越生線が出来て初代の駅長さんが着任した時、 駅長官舎に夜な夜なあやしい事があり 之は処刑人の魂が浮ばれない為だと云う事で 駅長さんは私費を投じて 舎宅のかき根の内に大きな塔婆を立て祈とうをしたり、供養を行つたがそれ以来かい異はなくなつたと云つていた。
まだその塔婆の形は残つている(一字不明)ろうと思います。
月世界旅行が話題となり科学万能の時代にかい(一字不明)談等随分古臭いと思われるかも知れない。
お伊勢ヶ原の昔を知るものも段々少なくなつた訳だが 若い頃この目ではつきり火柱の立つのを見た私は「おばけ畑」や「おしおき場」の因縁等も 万更(一字不明)のない事とも考えないし世の中には科学で割り切れない、いわゆる「理外の理」と云う事もあるのではないでしようか」 (Y)
引用元:文化新聞 昭和36年07月04週
さて問題の畑はどこにあったのか、という点については「このはたに矢田部黒麻呂のはかがあるが」という言葉がヒントになるかもしれない。
矢田部黒麻呂(「黒麿」と書く資料が多いので、以降「黒麿」とする)は『続日本紀』の宝亀三年(772年)十二月六日に記されている、奈良時代の武蔵国入間郡の人で、親が亡くなった後に斎食を16年続け、これが孝行であるとして労役を免除されたという人物である。
この8世紀の人物の塚が毛呂山の地にあるという伝承があって、
これについては、内野勝裕氏の「伝矢田部黒麿塚考」(『埼玉史談第28巻第1号』,昭和56年)が詳しい。
筆者なりに理解しつつ概要をまとめると、以下のようになる。
もう少しかいつまんで述べると、 かつては塔の越と呼ばれる古墳であり、黒麿塚と言い伝えてきた、 板碑は後から当地に追葬されたものである、しかし農地拡張のために墳丘を削平してしまったため、板碑が黒麿塚とされた、となろうか。
さて現在の場所について、東毛呂駅の東側を少し歩きまわって見たが、宅地化が進んでいることもあり、よく分からなかった。
内野氏の論考には
現在、矢田部黒麿塚(塔の腰)は東武越生線東毛呂駅の北東総庭団地の一角、一民家の庭に変じてしまった。
その庭にある柿の木(松の古木のあとに誰かが植えたらしい)だけがわずかに遠い昔の名残をとどめているにすぎない
と記載されている。40年以上前でこの状態なので、現在ではより不分明になっていても仕方がないと思われる。
記事中の「お伊勢ヶ原」というのは、「いせはらふれあい広場」という公園が岩井東にあるので、このあたりの事だと思う。
わずかに、昔の名残を感じられるかもしれない。
『埼玉県史蹟名勝天然記念物調査報告』(第一輯・大正十二年四月三十日)の中の「矢田部黒麿の碑」は大正十一年に調査されたもので、 報告文中の「沿革」を引いてみる。
「明治二十一年二月毛呂村大字岩井の住民二十余名より当村鎮座郷社出雲伊波比神社基本財産として現板碑所在地の周囲の地を寄附す、同年三月開墾の際現板碑を發掘したりと。」
文化新聞記事中のSさんは遂に出雲伊波比神社に奉納してしまつたと云われている
件と関連がありそうである。少なくとも出雲伊波比神社に農地が奉納されたというのは事実のようだ。
神社の境内には耕地を奉納した記念碑がいくつかあるが、寄附翌月の明治二十一年三月の、平山省斎(氷川神社大宮司)による揮毫によるものがあり(氷川神社も出雲系ですね)、奉納者である岩井村の村民の名前が記されていて、上記と関連がありそうである。
この奉納碑の近くには、奉納された耕地に立っていたであろう従是西出雲伊波比神社神供田
と彫られた石碑も残されている。
他の耕地についてはこのような碑は無く(少なくとも残されておらず)、特別な扱いだったようにも思える。
沿革の後半に、寄附が行われた明治二十一年二月の翌月、同年三月開墾の際現板碑を發掘したり
とある。
どうも寄付されたときはまだ板碑は地中にあったもののようで、ということは出雲伊波比神社の管理となってから発見されたらしい。
以下、「黒麿の塚」の文献上の初出が上記報告書であるという前提での、思い付きの妄想となる。
塔の越が8世紀後半の矢田部黒麿という人物の塚であるという伝承だが、
大正期以前にそうと伝える資料が無く(もっとも何かの理由で消失したり、あるいは記載のある文書等があるかもしれないが)、塚と思しき場所は削平すらされてしまっていた。そのような状況で特定の故人の墓所であるという言い伝えが千年以上に亘って連綿と語り伝えられてきたというよりは、途中で誰かが言い出したとするほうが、ありえそうな感じがする。
報告書には、この土地が神社に寄進された翌月に開墾したところ板碑が発掘されたとあった。
その時に、この板碑はなんだろうかということになり、矢田部黒麿のものではないか、という付会説が提示されたのではないか。
あるいは、上記の「一本松」で触れたように、もともと何か埋まっているという話があったのなら、積極的に掘ってみたという可能性もある。
さて、出雲伊波比神社は、もとは八幡社、飛来明神社だったが、幕末文政の頃に出雲伊波比神社と称するようになったらしい。
(新編武蔵風土記稿には出雲云々の字は無い)
式内社の「出雲伊波比神社」の後裔であるとしているが、諸説あって、入間市宮寺の寄木神社など、他にも候補がある。
「出雲伊波比神社」といえば入間郡正倉神火事件が有名で(詳細は割愛する)、この事を記した太政官符の日付は宝亀三年十二月十九日である。一方、黒麿の顕彰は宝亀三年十二月六日であり、非常に時期が近い。
つまり、神火事件に近い時期の偉人の塚が近所にある、とすることで何かしらの印象付け、主張の補強を意図したのではないか。
また主張の端緒が『入間郡誌』の指摘するように「宝徳」を「宝亀」に誤読したことによるかもしれず、
そのため、『入間郡誌』が世に出た後には「矢田部黒麿の塚」説をあまり言わないようになったのかもしれない。
いずれにせよ、「矢田部黒麿の塚」と改まった後は怪異が収まったのであれば、塚の主も、以て瞑すべしとなったのだろう。
「獄門はた」については、「今のY字路附近」や「駅長官舎」がどのあたりを指すのか不明なため、ちょっと難しい。
何かわかれば追記したいと思う。
2025.1.20up