この話は、書きぶりの軽さからすると「信じようと信じまいと」氏の筆によるものかと思われる。 しかし氏のほかの怪談と違って、怪異が原因で人が亡くなったり男性の幽霊が出たり、また「お清め」の催主も明らかにされていて具体的な要素があったりと、毛色が違っているので別枠で紹介する。
昭和56年(1981年)9月30日
「ユーレイが出た!」
ユーレイが出た!!
加治でお化け騒動
“お清め”でやっと収まる
「そういえばこのあたり、なんとなく薄気味悪い」
「若い人がポックリ亡くなったり、交通事故にあった人もいる。なにかの祟(たたり)かも……」
「それでは近所で合同の“お清め”をしよう」─
というわけで、ユーレイの霊を慰め、お清めするという珍しい〝お化け物語〟が加治地区で話題を呼んでいる。
朝晩肌寒さを感じ、怪談噺もシーズンオフの今日このころだが、最近の話題の一つとしてお聞きながしを……。
一軒の空き家がある
所は飯能市大字―(加治)。十四・五年前までは一面が畑で、昔からの旧道が縦・横に通るだけの淋しい風景だったが、いまは住宅が建て込み、ちょっと目にはおよそ〝お化け噺〟など縁遠いように見える。
そこにポツンと一軒だけ空き家がある。
「それ、ここがユーレイが出た家ですよ」
通りかがりの農家のおじいさんが教えてくれた。どこにでもある空き家と変りない。むしろ雑草もなく、ゴミ一つ見えないので、お化けと聞いてもピンとこなかった。
「え、中を見るんですか。よした方がいいですよ。たたりがコワイデスゾ」。
件のおじいさんが、驚いたようにいうのを背に、空き家のなかをのぞいて見た。きれいに掃除されていて、十年近くも空き家になっていたとはとても思えない。 そのきれいさが、かえってゾッとするように感じてきた。おじいさんにおどろかされたせいかもしれないが、なるほど言われてみると、ユーレイが出そうな気もしてきた。
夜中に笑い声がする
さっそく、ユーレイ話の取材に入り、近所の話を聞いて廻った。
主婦Aさん「この辺、十年前に引越して来たころから、不気味なところだと言われてました。この空き家はBさんという男の人が住んでいましたが、どうも体が悪く、一向に良くならない実家に帰ってしまったんです。それで空き家になったのが九年ほど前です。そのうち近所で若いお勤めのご主人がポックリ亡くなり、つづいて別な近くの家で若い奥さんが亡くなってしまったんです。交通事故に会った人もいました。そして昨年、その空き家に、ご主人が長期出張中という若奥さんと子供が引越してきたんです。ところが一ヵ月前後で、また引越すというんです。『なぜ?』と聞くと、青い顔して『どうも、あの家では……』とだけで越していきました。あとでうわさを聞くと、夜中に笑い声や話声が聞こえるというではありませんか。近所の人も、この話を聞いてゾーとしました」。
若い男がポックリ死ぬ
主婦Cさん「そんな話のさなか、そう今年の六月ごろでしたか、いつものように十一時近くになり、倅(三五歳)がまっさおになり、ガタガタふるえながら『おかあさん、ユーレイを見た』と家に飛び込んできたんです。白い着物の若い女のユーレイで、後姿だったそうですが」。
Aさん「その前にDさんのおばあさん(五三歳)がこの空き家の前で男のユーレイを見てるんですよ。あっという間に目の前にいたのが消えてしまったそうですが……。ユーレイを見たというのはそのお二人ですが、その話がパッと加治地区に広がりましてね」
主婦Eさん「若い人がポックり死んだり、交通事故があったり、あげくの果てはユーレイまで出てきたというので、どうしてだろうと村の古老に聞いたら、『昔、飯能戦争のさい、馬に乗った武士が傷つき、行倒れとなったのが、この辺りだから、そのせいかも知れない。そういえば、Bさんの家敷の角に馬頭観音があったが、いまはないようだ。どうしてだろう。そんなことが原因で悪いことが続いて起きたに違いない』というんです。そこで近所の人々十軒ほどが相談し、お清めしようということになったんです。近くのガソリンスタンドのご主人が吾野の御獄さんと懇意だというので御獄さんにおねがいし、八月五日に、お清めとお払いをしていただきました」
飯能戦争のタタリ?
なんと、このユーレイ話、百二十年近くも昔の飯能戦争にまでつながっていたのである。
八月五日にお清めしてから五十日ほど、いまはなにごともなくおさまっていたとか。お清めの効果テキメンと評価している人もいる。
お化け話に腑に落ちない。と首をひねっているのは、家を空けて、いまは東京に住んでいるBさん。お清めのさいは帰ってきて参加したが、「オレが住んでたときはなんともなかった。家を空けて東京にいるのも仕事の関係なんだが……。馬頭観音があったなどということは聞いたこともない」と不満顔。
取材が終ったところで、始めに会った件のおじいさんにまた会った。「どうだったかね。記者さん、お化けの収穫は?」とニタニタ笑いながら近寄って来てこんなことを話して去った。
「実は、空き家がきれいなのはお清めのさい近所の人たちが大掃除したからなんだよ。ユーレイを見たという人も、何かの宗教的の熱心な信者だと聞いてるが、ま、〝ユーレイの正体みたり枯尾花〟じゃないの……」
引用元:文化新聞 昭和56年09月05週
取材対象が「主婦」ばかりだとか、東京にいるBさんにどう話を聴いたのだろうかとか、写真の空き家も適当な空き家の写真を載せただけなような気がしないでもないとか、どこまで信じたものかよくわからない記事ではあるのだが、「飯能戦争のさい、馬に乗った武士が傷つき、行倒れとなった」という一行の口碑を考えてみたい。これが創作記事だったとしたら、戦闘の発生した旧飯能地区を舞台にしそうなものだが、振武軍隊士の通過地点である加治地区で飯能戦争が出てくるのが、かえって本当らしく思われたのである。
飯能戦争は戦闘期間も短く、戦死者の数について語られることはあまりない印象がある。能仁寺攻撃を指揮した大村藩の指揮官である渡辺清左衛門の談話では6,7人とのことだが、
賊も彼処に百人此所に二百人或は五十人といふ位に散在して居る、それに応して彼地此地の兵を払ひ出したが、此飯能に能仁寺という寺院がある、賊ハ其寺院に根拠を据えて之れを本陣と致して居るといふことか判かつた、そこて其寺院を目的に進んで参つた、所か果して賊い皆其方に集まって居つたから、急にそれを逐ふの手くはりして、佐土原は左側に廻り大村は正面より先登して能仁寺に進み、遂に逐落して其本陣を焼きました、此挙ハ格別戦と云ふ程にもありませぬ、
(中略)
此賊を討破りた所か、孰れに遁けたやら分かりませぬ、其死骸を埋めた跡を見ると大抵六七人の死亡のやうです 、其内銃手か三四人頭分か二三人と云ふ位のことで、戦争と云ふ程でなく百姓一揆を追散らす位のことであった
引用元:渡辺清談話『史談会速記録一三』
新政府軍の知らないところで死んでいった隊士は他にもいたかもしれない。飯能戦争の戦死者というと渋沢平九郎ばかりが取り上げられがちで、能仁寺にある振武軍碑も――撰文者が尾高惇忠の孫だとはいえ――平九郎のことにしか触れていない。しかしそれぞれの戦死者にそれぞれの最期があり、それぞれの無念があったろうと思う。そこで、記録上の戦死者について少し追ってみたい。また、加治地区に行き倒れた武士についても考えてみる。
(飯能戦争に関する資料の引用は『飯能戦争関係史料集』(飯能市郷土館,平成23年)に依拠する)
遂に知観寺も攻落され直に能仁寺に向フ道に、賊徒聖天林に隠れ居り、木間より踊出て爰を先途に防戦しけるに、大小炮弐百丁にて打立られ、賊士壱人討死し終に敗走す、
(中略)
官軍入込、本堂・山門・鐘樓不残火を放ち焼亡す、官軍所々にて賊徒を追散し、観音寺、飯能一円火災になりぬ、実に前代未聞の有様なり、官軍一手ハ前田口より攻入り爰にて賊士壱人討れたり
(中略)
飯能賊徒打死ハ三人 、官軍死傷等相分らす 引用元:『飯能辺騒擾日記』
飯能第一小学校の「なんじゃもんじゃの木」付近で一人、また前田で一人討死にしたことが書かれている。「三人」というのは別に渋沢平九郎についての記述もあり、それも含めてカウントしているからである。飯能村などの四つの村の役人の届け出では、もう少し詳しい様子が記されている。
御争戦中兵火起立、能仁寺・智観寺・観音寺・広渡寺并飯能・久下分・真能寺・中山民家所々夥敷燃上リ候得共、身命二者難替何れも山蔭等へ逃入相慎罷在候処、同日昼九ツ時頃官軍方御人敷様御勝利二而不残御陣払ニ相成、並柳村辺迄御帰陣、浪士方者負軍不残脱走ニ付、銘々追々ニ立帰候処、右四ヶ寺并飯能村民家九十四軒、久下分村同五十四軒、真能寺村同廿六軒、中山村同廿六軒、本家・土蔵・物置等焼立猛火ニ相成居候得共、防方無御座不残其儘焼失仕、心応寺・玉宝寺者無難、其日ゟ銘々老人子供之行方相尋罷在、漸翌々廿五日ニ相成人馬怪我一切無御座儀相分一同安心仕候、依之村内所々見廻候処、久下分村之内字下ノ稲荷際畑中ニ壱人、真能寺村広渡寺西裏畑中桑ノ木江首壱ッ懸、同小道ニ胴壱ツ、飯能村能仁寺境内東ノ山林ニ、首切れシ者壱人 、都合三人戦死人有之申候 引用元:『乍恐以書付御訴奉申上候』(飯能市智観寺文書)
兵火の被害についても引用してみた。久下分村の「字下ノ稲荷」(現在の字稲荷下か)の畑に一人、広渡寺の西側の桑の木に首が一つ懸けられ、道に胴が一つあるのが一人、能仁寺の東側に首を切られた者が一人と書かれている。
一、廿三日未明ヨリ諸方ノ官軍一同大砲厳敷無寸隙、遂ニ中山横手之裏手迄押入大砲連発セリ、飯能出口ト云処ニテ脱走方之遊撃撤兵ト接戦ニ相成、隊長壱名馬上ナリシカ疵ヲ被リテ下リ立、民家ニ入テ水ヲ喫シ再ビ戦場ニ走廻リ終ニ討死ス、是ヲ中山新太郎ト申御旗本ナル由、此者之為ニハ官兵数人被討果ト云
後年矢颪村ノ人此辺ニテ銅造ノ小仏像ヲ拾ヒ得タリ、之ヲ見知ル人アリテ云、是中山新太郎守本尊也、討死ノ時遺棄セシ者ナラント、此ニ於テ諸人群集シ霊像ナリ迚信敬ス、一時香火ノ輩多カリシニ其後聞ヘス
(中略)
一、今日討死ノ脱走方ハ飯能出口ニテ甲冑武者壱騎、原村諏訪沢ニテ着込ノ士壱人(金子七十懐中ニスト云)、野田村ニテ着込ノ士壱人、聖天森辺ニ壱人、前田村ニテ桑之木匕首ヲカケ有之候死骸一箇、外ニ篠井村ニテ壱人都合六人也 引用元:『飯能軍之記事』
旗本の中山新太郎と、彼により新政府方の兵が数人討ち死にしている。「飯能出口」は今の大通りの東側あたりか。この中山新太郎の守り本尊という銅製の仏像が矢颪の人によって発見され、しばらくは衆人の崇敬を受けたが、その後消息が途絶えたという。
「桑之木」云々については久留米藩士の『井上達也報国日誌』にも「討死ノ賊首ヲハね桑ノ木ニ掛テ」と当事者の証言もある。この井上達也についてだが、久留米藩難事件で処分された後に帰農し、福島県安積郡に入植。久留米開墾社の一員として開墾に苦心し、明治24年に当地で没している(『久留米開墾百年史』,久留米開墾百年史編集委員会,1978 および 『久留米人物誌』(篠原正一,1981))
また「諏訪沢の着込の士」(着込とは鎖帷子などの武装。また諏訪沢は市民会館東側の沢)、「野田村ニテ着込ノ士壱人」「篠井村ニテ壱人」の3名が挙げられている。
一、根岸・笹井河原・野田・川寺辺ニ而も戦争追々引上ヶなから相戦ひ候様子、官軍勢ハ一円ニ大小炮二而打立飯能江押進候様子
(中略)
一、中山能仁寺裏高山江一夜之内ニ脱走方ニ而右山ニ愛宕宮アリ、其際江大丸太四本押立高廿四丈斗り之櫓出来、幕張り大旗壱流押立戦争之掛引ニ見計度々櫓二而ノロシ上ケ、引上之節者キイロノノロシ上ケ候得者、脱走勢一手ニ集四ッ半時引上ケ夫ゟ秩父大宮辺江落行候趣
一、右櫓際愛宕宮前ニ白地綿ニ而たすき捨見え、是ハ徳川之儀士長谷川知道与印候、外二五字ラントセルモアリ、其近ニ寄討死之もの弐三人有之趣二候得共、耽与見届不申候
(中略)
一、飯能町方南裏原ニ脱走方クサリカタヒラヲ着、玉疵ヲ首江請、両杖ニ掛り歩行候所ヲ官軍被切殺、鼻ヲ懸き袖印山田鉄太郎与言もの由畑畦ニ死見え
一、同町方北裏庵之クね外ニ被切候もの有之、首者桒木之上江きけ其辺之諸木玉疵二而多分打折見え候
一、能仁寺東墓二壱人死人有之候、同寺内にも焼死之もの弐人有之趣ニ候得共火中二而聢与不相分
引用元:『飯能戦争覚書』
『飯能戦争覚書』では笹井・野田からの撤退戦について触れられている。敗走した振武軍が能仁寺を目指した道筋は双柳~前田と、野田~川寺と複数あったらしく、「加治地区の幽霊」は後者の途上で斃れた者かもしれない。(あるいは新政府方の兵かもしれない。『高岡槍太郎日誌』には「敵ニハ頻ニ乗馬シテ働ラクモノアリ、指揮官ト察シタルニヨリ誰云フトナク彼奴ヲ打撃シロト声ノ喧シキ故終ニ馬ヨリ打落サレタリ」という記述がある)
振武軍は羅漢山の山頂の愛宕宮に櫓を建て、狼煙を上げていたという。この櫓の周辺に、よく確認したことではないが2,3人の「討死之もの」が居たという。また、「飯能町方南裏原」の「山田鉄太郎」は、前述の「久下分村之内字下ノ稲荷際畑中ニ壱人」と同一人物と思われる。鎖帷子を着て、鉄砲の弾傷を首へ受け、杖をつくように歩いていたところを官軍に切り殺された、とある。
そのほか、首を桑の木に云々、能仁寺東側の墓地に云々み前述の者と同一人物だろう。他にも焼死者について触れられている。
上記の山田鉄太郎と関連があると思われる話が『飯能戦争』(新井清寿,飯能郷土史研究会,昭和63年)で紹介されている。
子育地蔵の由来
滝沢充氏の話を要約すると次のようである。
私の祖父は神主で、飯能の小山家で釜注連作りをしていたが、戦が始まるというので急いで帰宅し、村の若衆と矢颪山に登って飯能の方を見ていると、一人の立派な侍が官軍の屯している旧入子道を走ってくるので、あぶない、やられると話していると、たちまち銃声が響き撃ち殺されてしまった。
その後、明治二十年頃だと思うが、上品な老婆が飯能へ来て、戦争の様子を聞き歩いていたが、侍の戦死した辺りに地蔵尊を建て、それから何回かお参りする姿を見かけた。
あの老婆は多分あの侍の母親で、息子の供養のために地蔵様を建てたのだろうと、祖父が話していたと父が私に何回も話してくれた。
路傍の地蔵様なので、中里さんがお社を建ててくれたが、後、区画整理が行われたため現在遊園地内に移され、子育地蔵(久下地蔵)として人々が尊崇している。
矢颪から川を挟んだ反対側はだいたい稲荷下あたりになるので、この話は山田鉄太郎のことを伝えていると考えられる。そしてこの久下地蔵だが、戦死者を祀る目的で造立された、という『飯能戦争』の話は少々怪しい。文化新聞には「明治の初めころおまつりの人が絶えなかったとの話も伝えられており、江戸時代に建立されたことは間違いないらしい」とある(昭和59年7月12日号)。また堂内の額には「飯能戦争当時にはあったと言われます」と書かれており、わざわざ唐突に「飯能戦争」と明記しているのは、『飯能戦争』の記載に対して反論したものに見える。
辻褄の合うように考えると、老婆が新たに地蔵を立てたのではなく、息子が戦死した場所の近くにあったお地蔵さまにお参りした、ということではないだろうか。
わかいころ●●おじいさんから聞いた話ですが、竹ヶ渕の上と下で打ち合いがあって裏の竹やぶへ流れ弾が当ってカチンカチンと音がし、家族は畳を立てた中に座っていたといいます。
●●という私の祖父がよく言っていましたが家の前の県道を発砲しなから兵隊が行き、その中の官軍が一人、入ってきて危なく切られるところだったそうです。六尺もある大男だったといっていました。●●は畳を弾除けにして一人で家を守り、家族に鍋釜を持たせて逃がしたそうです。
うちでは祖母の「●●」が右のヒヂを鉄砲ダマで射抜かれてしまいました。二十年前に家を取りこわしたところ、わらやねの中から弾が五発出てきました。またその時まで使っていた雨戸には弾の跡があいていました。官軍の弾だそうです。家の隣で津志という兵隊が亡くなったくらいですから激戦地だったと思います。
川向うの鶏の木のハケの上で切り合いをしていて、刀がピカピカ光っているのが見えたといいます。
父の生家(広瀬)の隣りの醤油屋(●●●●)のお婆さんが風呂に入っていたところ、流れ弾が桶に命中して風呂の水がこぼれてしまったという話を父(●●)からよく聞いたものです。
私は金子村の生れですが峯から長沢尾根を越えて兵隊が飯能へ進んでいったというように聞いています。また近所の年寄りから聞いた話で、岩沢辺りの河原で深傷を受けた人が、もう駄目だということで腹を切り、まだ死にきれずにいたところを見たといいます。その人が云うには「人間の腹の皮ってずいぶん厚いもんだ」と思ったそうです。笹井へ来てから聞いた話では「大門」の前にあった地蔵様は飯能戦争の戦死者を弔ったものだということでした。
もう助からないと悟った者が岩沢付近の河原で自害をした話が紹介されている。また飯能戦争の戦死者を弔った地蔵様があったという。
上で「津志という兵隊」とあるのは新政府側の津志常蔵という人物で、振武軍との戦いで深手を負い、住民に見守られながら亡くなった人である。 詳しいことが『わらやね』の同じ号の「いのち栄えある朝ぼらけ 津志常蔵と渋沢平九郎 最終回 広沢謙一」に記載があり、一部を引用する。
(前略)
話の発端は、前年正月にさかのぼる。私は朝日新聞徳島支局に対し、津志常蔵の遺族縁者さがしを依頼した。その前年の或る寒い日であった。私は狭山市立図書館の山崎稔司書にと共に、笹井●●番地●●●●さんの案内で高台の上野原墓地に、飯能戦争の前哨戦笹井のいくさで倒れた阿波の国の勇士津志常蔵年行のお墓の前にたたずんでいた。
鉄道も空路も開発されぬ百年前、藩命とは云え瀬戸内を越えて転戦して来た無名の戦士にとって、武蔵国は遠い遠い他郷であったはづだ。数々のおもひを残して死んでいったであろう勇士の御霊を、このままにしておいてはいけないと思ったのである。
大新聞の調査網をもってしても、調べは遅々として進まなかったらしい。津志姓の武士の血筋がつかめなかったのである。
(中略)
慶応四年(一八六八年)五月二十三日早暁、笹井での東征軍と振武軍の斥候同士の遭遇戦――。東征軍の兵士として扇町屋方面から渡して来た津志常蔵年行は、笹井●●●●番地(●●●●家宅地内)の柿の木の根方に小銃を構えて戦かっていた。
笹井での戦いが済み本隊が飯能村へ向って進撃を続けていた時、津志常蔵は戦傷の身を笹井の上に横たへていた。●●家をはじめ近隣の人々の看護もむなしく、勇士は間もなく帰らぬ人となっていた。津志常蔵がいまわの際に「私は武士であるから、岩倉八幡としてまつってもらいたい。そうすれば、末永く邸鎮守として、この家を加護しよう」と云い残したと●●家に伝えられている。(●●●●さんの話)
現在、笹井の地には津志常蔵年行をまつる岩倉八幡が二つある。笹井●●番地●●●●氏方と、前記●●番地●●●●氏(●●家の分家)の宅地内である。●●●●さん宅では先祖をまつる仏壇に津志常蔵年行の位はいも一緒に安置され、おまつりされている。津志常蔵のことを語る時「兵隊さん」と云うことばを使って親しんでいる。
また●●●●さん宅では、現在でも毎月一日、十五日には岩倉八幡と呼ぶ邸鎮守に水をささげて、水を欲しがって息絶えた勇士のみたまを供養しているのである。
陣没した津志常蔵の亡骸は土地の人々の手によって入間川のほとりの共同墓地(現在の笹井ダムの側)に埋葬された。明治二十二年になってから笹井の上野原墓地に改装されて現在に至っている。昭和二十八年、「津志常蔵年行」と刻んだ墓碑が建てられた。今でもお彼岸やお盆には、勇士のお墓は香煙で飾られる。だが、このお墓の由来を知る人は次㐧に少なくなってしまった。 ただ気になるのは、この墓碑の裏面に記入されている文字が「慶応三年旧六月飯能戦に於て殪る(たおる)」となっていることである。施主●●●●●さんも既になく確かめることはできないが、年号のあやまりはともかくとして、或いは津市常蔵は、六月まで生きていたのかも知れない。
勇士の品である皮の肩かけかばんと鉄砲だが、●●家の火災で消失し、現在見ることはできない。●●●●さんの話では、三八式旧陸軍歩兵銃より長かったと云われる。外国製の銃であったろう。
さて再び朝日新聞の記事に戻ろう。
――広沢さんの手紙によって徳島市の金沢治さんら郷土史家が「津市常蔵年行」と云う阿波藩士を調べ始めたが、今のところ手がかりはない。 戊辰の役以降の戦没者をまつる徳島市城ノ内、護国神社の命日祭名簿にも津市常蔵年行の名はない。
また出身地という阿波郡には現在津志姓の家もない。ただ隣の美馬郡脇町に岩倉八幡と云う神社があることなどから阿波の人に間違いなく、「徳島藩士譜」の著者である宮本武史徳島大附属図書館事務長も「確かなことはわからないが、阿波藩の重臣上田甚五右衛門に率いられた鉄砲隊の一員だったようだ」といっている。
(中略)
この歴史的なエッセイを書きはじめた事点では、津志常蔵年行の生いたちも経歴も判明するものと信じていた私であった。切角のトップ記事であったが、遂に今日まで徳島から何の音信もない。
一世紀の壁は、長く、厚く、破ることができないでいる。
阿波の勇士、津志常蔵のみたまにとって、笹井の地は未来永劫去りやらぬついの住み処であるかも知れない。
明治の夜明けを迎えるための戦いに参加し、笹井の地傷ついた振武軍の渋沢平九郎昌忠と、同じ笹井の他で陣没した東征軍の津志常威年行と云う二人の勇士に対し、“いのち栄えある朝ぼらけ”の賛辞をおくり、御霊に捧げる挽歌を結ぶ次第である。
『飯能文化財時報』第56号(昭和48年3月20日)にも「飯能戦争余聞」として津志常蔵のことが掲載されている(残念ながら終始「津志」が「律志」として誤植されてしまっている)。こちらには常蔵の最後の言葉が「自分は武士であるから自分が死んだならば仏ではなく神として祀ってくれるようにと頼み」とある。また岩倉八幡をお祀りしている家で子供が誕生した時に「ある易者に伺ったところ、例の律志常蔵の岩倉八幡の霊が顕れ、「●●」と命名せよとのことだったそうである」との記載もあり、単に供養されるだけではない存在感を保っていたことがうかがえる。
津志常蔵は阿波の人ということになっているが、振武軍を征討した藩の中に徳島藩の名前はない。徳島藩は新政府方として少数の兵を戊辰戦争に派遣したらしいので、笹井で戦った佐土原・大村・備前藩のいずれかに参陣していたとすれば辻褄は合う。しかし広沢氏が朝日新聞徳島支局に問い合わせた結果は、津志常蔵の手掛かりはなく、津志姓の家もないとのことであり(「津司」宅はあったらしいが)、本当に阿波藩士だったのかは謎が残るのである。
またこちらのnoteによると、飯能戦争で負傷した振武軍の隊士が久下分村の名主の家(小山家)に匿われ、秘密のうちに亡くなったこと、亡くなる前に、当地の守護神になるから、死んだら神として祀ってもらいたい、と遺言したこと、後に太郎神として三座稲荷に祀られたこと、という驚くべきことが明かされている。この件について、核心に触れずに紹介した文章が昭和54年(1979年)4月3日 「<民俗茶ばなし>一〇五 お稲荷さま 小谷野寛一」として掲載されている。
偶然にも、飯能戦争での戦いで深手を負った隊士が、その末期に際して自分を祀るように頼み、そして神となったという例が、振武軍・新政府軍の両方で起きたという事になる。
東飯能駅西側にある東神森稲荷の境内に「飯能戦争全国戦死者供養塔」がある。銘には「平成十一年八月吉日」(1999年)とあり、これは飯能戦争の約130年後となる。左隣の石碑に説明文が刻まれていて、
(前略)官軍に討ち果たされた若い兵士は無念の死をとげ兵器とともにこの塚の下に埋葬された 行くところもなく家へも帰れずさまよう兵士の魂を慰めるためここに全国の兵士の供養塔を建立し慰霊するものである 合掌 玉法寺十八世黒田道雄代(雪雄)とあり、十八世の意を継いで建立したものと思われる。「埋葬された兵士」は、久留米藩士により首を切られた者だろうか。慰霊碑の右側には小さな石の祠があり、先の説明文には「若宮八幡宮 古くから当地に祀られ死後の世界を守護って下さる菩薩である」とある。「古くから」とあるが、祠は新しいので建て直したものかもしれない。若宮八幡(あるいは単に「若宮」)は、非業の死を遂げた者を、祟りを防ぐために祀る場合が多いとされる。従ってここの若宮八幡が「古くから当地に」あったかどうかはわからないが、飯能戦争の戦死者を若宮八幡として祀ったものと考えられる。
これまで前田地区では病気や死亡した不吉に見舞われた人が十余人もいる。易者にうらなってもらったら、そのお告げのなかに必らずお稲荷さんが出てきた。これは地元にある東神森稲荷様を余りにこれまで粗末にして、お祭りなど全然かえりみなかったらだ。われわれ地区民だけでも賑やかな好みのお稲荷さんをこれまでどおり盛大な大祭日をつくり、無病息災を祈ろうではないか」つまり稲荷様の祟りを恐れたというのが背景にある。
寛永年中僧宝室存殊の創建とある。この記載が何に依拠しているか不明だが、寛永年間は1624年から1644年なので、由緒が正しいとすると1604年は玉宝寺開山から少なくとも20年も前のこととなり、少し早過ぎないだろうかと思う。
さて、飯能戦争の戦死者について追ってきたが、すべての兵士を供養する塔のあるこの場所で、ひとまず足を止めたい。
2025.12.31up, 2026.1.6rev