昭和35年6月13日市指定史跡
この塚は市営住宅浅間団地のにあるバス停「市営住宅」の北方約2百㍍のところにあり、浅問自治会・浅間第一自治会の管理となっています。
低い丘陵性の地形のなかに直径東西31㍍、南北34㍍、周囲約百㍍、高さ5㍍で全面に笹等が繁っています。頂上は、東西9㍍、南北8㍍の平坦地で浅間の小社が祭られ、南西部の見晴らしは良く、秩父連峰、富士山を臨めます。
新編武蔵風上記稿の「雙柳村」の項には「こめ塚 村の艮新田の辺にあり、高さ二丈余、周囲二十間許、塚上に浅間の小祠を安ず、数株の杉たてり、この塚は正治元年(1199)青木氏族討死の者を埋めし所なりと云、然らば籠塚と書べきならんに、里民文字を伝へず、秀常寺の持なりり。」とあり、飯能郷土史には「正治元年8月源頼家が安達景盛を討とうとして兵をあげたとき、わか飯能の丹党加治氏は、青木一族と景盛の陣に加わり武蔵野に合戦し、一族とともにこれに殉じた。この双柳村のこめ塚は千人塚ともいって、この騒動の中に討死した丹党武人を葬ったところ」と誌してあります。
いずれにしても古墳であるのか、塚であるのか確かな文献もありませんが、地区の方々は浅間塚または千人塚として大切に保護しています。