この観音窟石龕は、西武秩父線吾野駅を下車し、法光寺の裏側から西武建設の石灰山を500㍍ほど登った頂上近くの広場の隅に自然にできた石灰岩の洞窟にあります。この洞窟が、岩殿観音窟と呼ばれるものです。この中は、夏の目も冷えびえとして、その霊気に心がひきしめられるようです。
もとこの観音窟は、行基菩薩の手彫りによる十一面観音像が、安置されていた霊場であったといわれています。また、貞和2年(1346)比丘元灯などを大観進として十一面観音を納める石籠を造立し、文和5年(隅)には数百人の協力者を得て石門を作りました。この石龕は、多数の青石板で囲まれた四角塔の厨子で、これに石門と石棚を回らした仏教遣跡として類例の少ないものであります。なお、貞和2年と刻まれた石龕の扉と思われる青石板が法光寺本堂に保管されています。
その後明治、大正の歳月を経て、この遺跡もいつしか人々から忘れられがちになりましたが、昭和13年に至り管理者ほかの尽力により、十一面観音像を浮彫りした金銅の鋳像(香取秀真氏作)が、石龕に納められ観音堂も岩龕を覆って再建されて、今に信仰の灯はともされています。