昔の中山宿は城下町として発達し、川越、秩父の通路に接していました。中山家は武蔵七党の一つ、丹党の出で加治家季の後裔であり、中山に居住していたので中山を氏とするようになりました。小田原北条家の滅亡した天正18年に八王予城で壮烈無比の戦死をとげたのがこの家範です。
館は今の大字中山494(智観寺東)にあって、北に蓬莱山、遊亀山、勘解由山、はるか東に鶴ヶ峰と続き、漣沢からの堀は東側を流れ南は平地で開け要書の地でした。ここの館の東または南に神田、小越、本橋、井出の中山四天王家が点在し、山崎、佐藤、尾島など中山六人士が東側に併存して館の守りとなっていました。
また、西に菩提寺である智観寺を配し、西北に丹生明神を、北の勘解由山には鎮守十二社がまつられていました。
周囲には推定幅4㍍から6㍍、深さは深いところで2㍍ぐらいの空濠をめぐらし、現在東を流れる堀を利用して、堀割が東南にのびていたようです。
中山家代々の武将は一族郎党をひきいて、あるいは川越夜戦に、八王子城の守りにとこの館から華々しく出陣したことでしよう。
現在は空濠の一部を残すだけで宅地になり、残念なことに昔の面影をみることはできません。