吾野の岩殿観音が2006年に「一般公開」されました。 施設の改修と参拝路の整備が行われ、これまで悪路だったところがとりあえず普通の山道になりました。 詳しくは下記に引用した文化新聞の記事をご覧ください。
法光寺=飯能市坂石町分333−1、大野文雄住職=の裏山に奉られる県指定重要文化財「岩殿観音石寵(せきがん)窟」の修復と周辺参道の整備が進められ、5月14日の改修落慶法要を境に一般公開される。岩穴の中に建立された石寵は全国でも珍しい歴史的価値の高いものだが、昭和の初め、岩殿山の石灰岩採掘にあたり、一度は消滅の危機を迎えたことも。その後も採掘現場のため参詣は困難となっていたが、約70年を経て、晴れて開帳の日を迎えることになった。
天然の鍾乳洞の中に観音像を納めた岩殿観音石龕窟は、吾野駅近く、法光寺の本堂から1キロほど登っていった場所にある。入口は朱塗りの扉に守られ、高さ2・5メートル、幅3メートルほどの洞窟の中に緑泥片石で組まれた石寵が立つ。石寵の前には全国でも例を見ない石門が立ち、周囲には青石塔婆もある。
その昔、行基菩薩が東国巡錫(じゅんしゃく)の折、この洞窟で一夜を過ごし、夢に現れた白馬童子の「十一面観音を安置せよ」との告げを受け、山上にあった霊木で手彫りの観音像を洞窟内に安置したとされ、1346年には比丘元燈が多くの信者の協力を得て石龕を建立したという。行基菩薩の彫った本尊はその後失われ、現在は1933年に香取秀真氏が鋳造した十一面観音像が納められている。
山は石灰岩で覆われていたことから、昭和の初め、石灰採掘が始まり、観音窟も消滅の危機を迎えたが、武蔵野観音霊場を開創した柴田常恵氏や東京市長だった小増一太氏などの援助もあって保存されることになり、昭和9年には埼玉県の重要文化財として指定を受けた。しかし、採掘現場のため参詣は困難、参道も次第に荒廃していった。
同寺の大野文敬副住職(46)は「かつては多くの人が参詣に訪れたと聞く。採掘がはじまってからも参詣を希望する人は後を絶たなかったが、参道も木々に覆われ、案内できない状況だった」と語る。
石灰採掘腸始から約70年が過ぎ、寺、檀家の間から観音窟を一般に公開できるようにしようとの気運が高まり、実行委員会(石田宣雄委員長)を組織。老朽化していた観音窟の扉や屋根の改修、また、間伐や枝打ちを行って新たな参道の整備に乗り出した。
観音窟の外側には以前のものと同じ様式の朱塗りの扉と銅葺き屋根が設けられた。そして、これまでは中への立ち入りが出来ないようになっていたが、洞窟内に入って格子越しに石龕と観音像を拝顔できるようにした。
本堂と観音窟を結ぶルートには、岩壁に彫られた仏像「弘法の爪書き不動」、落差18メートルの「宝生の滝」、「畠山重忠の馬蹄跡」、「弘法の硯水」などの史跡伝説が残っており、さらに歩を進めると子ノ権現へと抜けることができるから、「名所を巡るハイキングコースとして復活させたい」との声も高まっている。
観音祭大般若会にあたる5月14日には、午前10時半から市教委による岩殿観音の解説、11時から改修落慶法要が行われ、その日から一般公開される。70年の眠りについていた貴重な文化財の開帳は、多くの注目を集めそうだ。改修落慶法要へは一般参加も可能。問い合わせは、法光寺978・0038へ。
(写真)鍾乳洞の中に奉られる岩殿観音石龕窟
(写真)朱塗りの扉、銅葺き屋根などが改修された
(写真)付近にある史跡伝説のひとつ「畠山重忠の馬蹄跡」を指差す副住職
飯能市坂石町分、山中の岩穴に奉られる県指定重要文化財「岩殿観音石龕(せきがん)窟」の修復落慶法要が14日、観音窟を護る法光寺(大野文雄住職)の関係者、周辺住民ら約300人参列のもと、盛大に執リ行われた。観音窟は昭和初期以降、石灰採掘のため参詣が困難となっていたが、今回の改修工事に伴い参道も新たに整備され、約70年ぶりに日の目を見た。
昭和9年に県の重要文化財に指定された岩殿観音石龕窟は法光寺本堂からーキロほど登った天然の鍾乳洞の中にあり、奈良時代に行基菩薩が手彫りの観音像を納め、貞和2年(1346年)には比丘(びく)元燈(げんとう)が信徒数百人とともに石龕を建立したという。本尊はその後失われ、昭和8年に香取秀真氏が鋳造した十一面観音像が納められた。
関東三大岩殿のひとつと呼ばれ昔から多くの信徒が参詣に訪れたが、昭和初期から始まった石灰採掘に伴い立ち入りが困難となり、参道も荒廃。約70年の歳月が過ぎ、その存在は忘れ去られようとしていた。
「文化財としても価値のある貴重な観音窟を埋もれさせたままにしておけない」と、寺、檀家の間から修復と一般公開への気運が高まり、実行委員会が組織され、採掘を行っている西武建材吾野鉱業所の理解、また県、市の補助を受け、老朽化していた観音窟の扉や屋根の改修、さらには法光寺から登るための新たな参道の整備が行われた。
改修された朱塗りの扉と銅葺きの屋根の前には、堂内の観音像と「お手綱」で結ばれた高さ5・6メートルの角塔婆(かくとうば)を建て、参詣者が扉を開け堂内に入るとセンサー式の照明が灯り、格子越しに石龕と観音像を拝顔できるようにした。
修復落慶法要の参列者は法光寺本堂前から貸切バスに揺られ爽やかな新緑に包まれた会場へ。はじめに飯能市教育委員会職員が岩殿観音の歴史を解説し、続いて大野文雄住職ら僧侶が高さ2・5メートル、幅3メートルの堂内に入り、般若心経読涌(どくじゅ)、大般若転読などを行った後、参列者たちが順に焼香した。
法要後の式典では、石田宣雄実行委員長が開会の言葉を述べた後、大野文雄住職、長嶋昭総代長、来賓を代表して沢辺瀞壱市長が挨拶。また、協力者として西武建材吾野鉱業所、司産業、吾野原木センター、金子組に感謝状が贈呈された。
大野住職は参列者に感謝し、「岩殿観音は古くは鎌倉時代から、大勢の方々に参拝して頂いた。再興は父の代からの強い願いであり、事業所の理解、そして県、市、皆様のの協力を頂き再び日の目を見ることができた。景勝地として、末永くお参りして頂けたら」と述べ、観音窟周辺に残る「宝生の滝」「弘法の爪書き不動」「弘法の硯石」「畠山重忠の馬蹄跡」などの史跡伝説についても紹介した。
また、沢辺市長は「関係者の話を聞くと、かつて、この地に多くの方が信仰に訪れ、地域が栄えていたことがよくわかる。新たに参道も整備され、飯能を代表する観光地のひとつになるのでは」と期待していた。
(写真)約300人が参列した修復落慶法要
(写真)観音窟の中で般若心経を読む住職ら
(写真)参列者に感謝を述べる大野住職