江戸から明治へと、かつてない日本の変革が行われたとき、その陣痛ともいえる痛みが列島を西から東、南から北へと走りました。その一つである飯能戦争は、天覧山麓の能仁寺を本営として構える振武軍と、直竹、鹿山、双柳、野田の四方面から進撃して来た官軍(筑前、筑後、備前、佐土原、大村)との戦闘でした。
上直竹下分の宿谷武氏宅の文書によると「慶応四年五月二十三日夜明けとともに開戦したが、すでに敗走を重ねて来た振武軍のこと、わずかの戦闘で逃散した」ようです。
また、「この日、討取人数およ不分明、生捕は凡そ五、六十人、深手、浅手員数不知」とあり、戦闘員の被害はたいしたことはなかったようです。
それに比べて、飯能、久下分、真能寺、中山などの村々の人家、寺院など二百以上も焼失したということです。