武州一橋領の農兵



武州一橋領の農兵(前)

幕末、飯能の一橋領は、大河原、原市場、唐竹、赤沢、下直竹、上畑、下畑の七か村でした。また、現在日高町となっている横手、栗坪、清流などを合わせて、飯能周辺に十七か村の一橋領がありました。

江戸から明治へと大変革をとげたとき、飯能戦争に代表されるこの地方も、一つの舞台となりました。

長州藩の奇兵隊は、歴史上有名ですが、一橋の農兵についてはあまり知られておりません。

一橋慶喜(のちの徳川十五代将軍)は、元治元年(一八六四)三月禁裏守衛総督(京都御所の警備)摂海防禦指揮(摂津の海防に当たる役職)という役職を朝廷から仰せつかりました。

もともと徳川三卿の一として、十万石を領してはおりましたが、一橋家には軍備がなく、たびたびの上洛にも幕府さし向けの武士が警備に当たったり、領地から百姓を狩り出すような状態でした。

しかし、この役職を遂行するのには、軍事力を備えねばやっていけないことは自明でした。



武州一橋領の農兵(後)

そこで、一橋の軍制所役人であった渋沢誠一郎、渋沢篤太夫(のちの栄一)らの建言で、農兵の募集をはじめたといわれています。

赤沢の浅見譲二氏宅の文書によると、積極的に応募した人はいないようですが、慶応二年(一八六六)には、十七か村で三十三人の農兵が割り当てられています。

しかし、割り当てられた人数を選ぶには、相当困難であったように思われます。

「右は先達て渋沢成一郎様渋沢篤太夫様御廻村の上前書名前の者共歩兵御組立人数の内へ御人選相成者……」これは元治元年(一八六四)八月二十一日付の文書(唐竹の鈴木晃氏所蔵)で、これによれば軍人として役に立ちそうな壮健の人を選ぶために、この周辺の村々を巡回したもののようです。

なお、この文書には、選ばれた人の身体が弱いので、常常服薬をしており、御用を勤めることは難かしいと申立てたが、それなら別人を出せといわれ、困っているので免除してほしいとも書かれています。

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