江戸時代の農民にとっては、年貢を納めることが日々の生沽のうえで、もっとも重要な位置を占めていました。
現飯能市域の各村は、当時天領(幕府の代官が治めていた)をはじめとして、黒田、一橋、田安、旗本領と各村がそれぞれ支配者が異なっていました。
したがって、年貢を納める方法なども多少異なっていたのではないかと思われますが、その納付率は高(その村の収穫高)の何割ということで、およそ江戸時代紅雄、は五公五民といって、納付が五割・農民に五割が残るしくみになっていました。
後期になると農民に残る率はもっと少なくなったようです。
赤沢村(現大字赤沢)嘉永二年(一八四九年)の「酉御年貢鐚附勘定帳」によると、ほぽ五割五分の率で年貢を納めており、他の村も大小同異であったのでしょう。
飯能の村々は、そのほとんどが米作に不向きな土地柄であるため、石代納といって米で納めるかわりにお金で納める村がほとんどでした。
前号の赤沢村文書では鐚銭(粗悪なぜに)と漆(現物納)で納めていたようです。
「御割付(現在の納入通知書)が名主のところへ来たので、組頭衆中、惣百姓が立会い写しとり、勘定入目の儀は組切にてつかまつり候」という文書に見られるとおり、村に割り当てられた通知が名主へ届くと、村のおもだった人が集まり、各戸への割り当てをきめました。
二つ割付については、江戸初期は検見法といって毎年の収穫を検分してかけられていましたが、江戸時代中期以降は定免法という制度がとり入れられ、過去数か年の収量の平均をとって以後五か年、十か年の年貢をその年の収穫にはかかわりなく、同じ率で課されるようになってきました。
飢饉の年などには、定免を少なくしてほしいとか、その年は勘弁してほしいとかの願書を出している村もあります。
もっとも平年作でも山間部に入ると、自分達が食べる食糧も半年分ぐらいしか穫れないことが普通で、木の切り出し、炭焼、養蚕などの収入によって、残り半年分の食糧を買い、年貢の納入などに当てていました。
また平地部の川沿いである矢颪や岩沢方面では、毎年のように来襲する大雨のため、堤防が壊され、作物が流されるというような状態で、江戸中期以降の文書の中に「入間川通御普請」という治水工事の書上帳がしばしば見られます。
干害、水害、霜害など自然の災厄に立ち向かって、営々と続けられてきている私達先祖の努力は、並大抵でなかったことを古文書は語ってくれています。