「数多くのすぐれた作品を残しながら、その来歴、生年月日さえ全く不明なのは残念中の残念といわねばならない。」
飯能文化財時報(昭和三十四年三月十日発行)で、飯能在住の詩人であり、文化財保護審議員として「飯能焼」を研究されていた故蔵原伸二郎先生は嘆いておられます。
聞くところによると、今まで発表された飯能焼の歴史については、最後の陶工であった故双木佐七氏からの聞き書きによるところが多いようです。
しかし、このたび窯場があった眞能寺村の名主役を、代代勤めて来られた家柄の、現当主双木利夫氏所蔵文書を拝借し調査した結果、いくつかの新しいことが分ってきました。
素朴な色調と筒書きといわれる絵付けの手法が特長とされる飯能焼という陶器を、双木八右ヱ門という人が焼き、腰塚小四郎という人が絵付けをしたということですが、この人たちはどこから飯能の地へやって来たのでしょうか。
ここで、双木家文書を少し解説してみましょう。
前号にも記したように、双木家は代々世襲名主として眞能寺村政の長という立場にあったようです。そして飯能焼にも少なからず関係していたように思われます。
江戸時代中期から明治の中ごろまでの千余点の文書が残されており、その中に飯能焼の陶工や絵師に関する記述をしたものが数点発見され、今まで不明であった出身地や生年月日が分かりました。
宗門人別帳、人別送状がそれですが、人別帳は天明二年(一七八二)から明治四年までの三十二か年分のものがあり、送状は多くの中から陶工であった双木新平、絵師の腰塚小四郎のものが発見されました。
さて、ここで窯業が興こる場合の土地条件を考えてみましょう。一、陶土があること。二、焼成のための薪(主に松材)があること。以上二つが最低条件です。飯能市は現在でも市域の三分の二が山地であり、江戸時代の初中期から建築用材、薪炭材を江戸へ搬出していたようで、二番目の条件は充分に満しております。そこで第一の条件である陶土ですが、すでに享保三年(一七一八)にそれを証する文書がありました。
旧飯能村の名主家文書として保存されている大河原文子氏所蔵の中に「飯能村多う能す山之内茶腕土有之」という一文書があります。
この文書では、陶工がいないので捜しているが江戸で見つからないので、京都東福寺の門前に近江屋代助という陶工がいることを聞いたので世話をしてほしいと役人に願い出ております。
この内容から第一の条件である陶土が多峰主山にあることが知られていたことになります。
現存する飯能焼は江戸時代末期から明治初年にかけての作品がほとんどのようですが、それより百年も以前に陶土の存在が知られていたのです。
しかし、その後陶工が得られたのかどうかは、関連文書がないので分りません。
陶器の産出ということは、産地の経済に影響するだけでなく藩財政(当時の眞能寺村は黒田領)にも少なからず影響を与えるものであり、江戸時代中期から各藩がこぞって殖産興業を図ったことは、みなさんご承知のことでしょう。
飯能焼がどの程度の規模であったのか、領主とどのようなかかわりを持っていたのかは不明ですが、陶工の数から考えるとかなり大規模なものであったことは確かなようです。
いよいよ今回から陶工と絵師の来歴に入りますが、最初に述べましたように、双木家文書の宗門人別帳と人別送状によったものであることをお断りしておきます。
「八右衛門と称する一陶工があって、天保(一八三〇〜一八四三)以前に陶器を始めたと。」と飯能郷土史(昭和十九年刊)に書かれておりますが、八右衛門の名前が出てくる最初のものは弘化二年(一八四五)で、それ以前には見当たりません。
「一、禅宗同寺(眞能寺村の広渡寺のことであり、以下「同寺」は広渡寺のことである) 平兵衛店 旦 那 八右衛門 印 巳四十六歳 同人妻 ひ さ 三十六歳 此者大岡主膳正様御領分岩槻宿田中町寅松引請人ニテ当村惣兵衛店請人ニテ差置申候」
これが弘化二年の八右衛門に関する記述ですが、この人別帳に載る以前に来飯したとしてもそれほど何年もさかのぼることはないでしょう。
もしかりに、この八右衛門が最初の陶工であるとするなら、従来飯能焼の創始年代といわれてきた天保三年は、若干下るのではないかと思われます。
次号からは生年順に陶工と絵師の来歴を述べる予定です。
腰塚小四郎
飯能焼のもっとも特長とされる筒書きの手法は、この小四郎の手によるものだといわれております。
器の面に白線で盛り上がるように描かれた紋様は、素朴な素地に気品を漂よわせております。
小四郎が来飯したのは嘉永四年三月(一八五一)のことで、五十六歳になっておりました。
武州幡羅郡玉井村から真能寺村役人への送り状には、本人からの願出によって真能寺村へやってきたように書かれております。また、八右衛門の世話によって来飯したようにも書かれていますので、八右衛門が呼び寄せたとも考えられます。
玉井村は現在熊谷市の一部で熊谷市にも「熊谷焼」という陶器もあり、画も盛んな土地柄であったようです。
のちに小四郎は画号を玉井庵志水と称しており、出所を忘れなかったのでしょう。
寛政六年(一七九四)十一月十四日生
明治九年二月十五日亡、
八十一歳
来飯してから亡くなるまでの二十五年間、多くの作品を残していると思われますが、双木家の飯能焼コレクション(市文化財指定)の中にも相当数あると思われます。
双木新平
「今般其御配下八右衛門殿方二而養子二申受」
野州芳賀郡道祖土村(現在栃木県で益子の近く)の名主七郎左衛門から真能寺村名主利八郎へ文久二年(一八六二)に送られてきた新平の「人別送状」の一節です。
新平の出所は明らかではありませんが、道祖土村ですでに厄介人と書かれているところからこの村の出身でないことは確かなようです。
さてそうするとどこかというとはっきりしませんが、のちに信楽から養子をもらいうけていることから信楽の出身ではないかと思われます。
また、道祖土村というのは益子焼の窯場に近く、察するところ陶工である新平は最初益子窯に行き、招かれて飯能の地に来て八右衛門の養子になったように思えます。
飯能焼の事業が順調に進み、陶工の手が足りなくなったとき多くの陶工を招いて規模の拡大を図ったのではないでしょうか。
というのは、万延元年(一八六〇)から明治二年二八六九)の十年間に四人もの陶工が来飯していることからもうかがえます。
文政元年(一八一八)十月二十八日生没年不詳
山本卯兵衛(卯平)
「此者儀村内新平厄介人二而同村八右衛門請人二依而差置申候」
明治二年にはじめて卯兵衛の名が見られ、八右衛門の世話により来飯し、新平の家に厄介になっているということです。
卯兵衛もその出所が書かれておりませんが、のちに滋賀県甲賀郡杉山村の杉本卯平治の孫を養女に迎え入れていることから信楽の出身であることが推察されます。
文政二年(一八一九)二月十四日生
明治二十四年十一月十五日亡
一柳重五郎
「大津県支配所江州甲賀郡信楽神山川口重三郎悴慶応三丁卯年四月養父勝五郎遺跡相績ス」
信楽から真能寺村へ来て、一柳家へ養子に入り、勝五郎の跡を継いだようです。
天保三年(一八三二)八月二日生
明治二十年八月二十九日亡
双木善七
「江州甲賀郡信楽神山村百姓神山善兵衛四男万延元庚申養父新平遺跡相続」
新平の養子となり、その跡を継ぎました。
天保4年(1833)8月14日生
明治16年4月30日亡
腰塚倉太郎
二代目の絵師として活躍したようですが、初代小四郎の二男として、小四郎を継いだものと思われます。
安政4年(1857)4月22日生
大正9年2月29日亡
双木佐七
善七の長男で、飯能焼最後の陶工として活躍され、飯能一焼についての歴史を今に伝えた人です。
文久2年(1862)12月20日生
昭和28年1月25日亡
この外にも飯能郷土史(昭和19年刊)で書かれている川口恒右衛門などといわれる人が居たようですが、双木家文書の中には見当りませんでした。またその外に飯能焼にたずさわったと思われる人も居りますが本稿では割愛しました。
飯能焼はけっして華やかではありませんが、素朴な色調と筒書きの流麗さで、なんともいえない味わいを見せてくれます。
これらを焼成した陶工と絵師の来歴をたどってきましたが、行きついたところは信楽でした。
ちなみに信楽焼現代陶工の名簿には、卯兵衛の養女の旧姓杉本、善七の旧姓神山、卯兵衛の山本などの姓の方が十人以上も居られます。
それらの方々の先祖と飯能焼陶工とのつながりが思われたんに偶然の一致とは思われません。
江戸末期から明治初年を最盛期として、多くの作品を残したであろう飯能焼は、他の産出地が機械化をはかり大量生産をはじめたときから衰退をはじめ、その競争力は弱まり、やがて明治中期には双木佐七を最後の陶工として廃窯のやむなきに至りました。
しかし、今岐阜県から陶工虎沢英雄氏が来飯され、新しおこい飯能焼を興されております。
地元産業としても、伝統工芸としても大いに期待されるところです。