村の生活 飢饉



村の生活 飢饉(1)

飢えて死ぬほど、人間としてみじめなことはありません。

長い歴史の中で、この飯能の地でも飢えで苦しんだ時代が何度かありました。

農作物は天候との関わりが深く、人間の知恵が及ばない部分が現在でも多くあります。

今年が冷夏であったこともあり、ここで飯能における飢饉について考えてみることにしました。

日本の歴史上、飢饉はたびたび起っているようですが、とくに知られているものとしては、天明3〜7年(1783〜1787)のものと、天保4〜7年(1833〜1836)のものです。

天明のそれは、江戸時代を通じてもっともひどかったといわれ、冷害、旱害、また浅問山の噴火(天明3年)なども加わって、東北地方などでは、人が死に絶えて空家となったものや白骨死体が道のあちこちにころがっていたと申します。



村の生活 飢饉(2)

飯能地方は、東北ほどではなかったようですが、それでも餓死寸前の状態が現出したことは確かなようです。

幕府では、それらの惨状を打開するために、夫食(食料)、種代、農具代の貸付や拝借金米の返納延期等の政策をつぎつぎと打ち出し、農民生活の、安定を図りました。

天明8年2月には「郷蔵設置令」を発布して、これから起こるであろう飢饉に備え、村高(村の収穫高)百石につき米ならば1斗、麦、粟、稗の類は2斗ほどを貯えさせるようにしました。

置穀、郷蔵、置米、貯穫などという言葉が、飯能の古文書の中にもしばしば出て来ますが、みなこれの関係する言葉で、各村ごと、または数か村で蔵をつくり、飢饉の時のために貯えをしておりました。

次号から具体的に飯能の文書のそのときの様子にふれてみたいと思います。



村の生活 飢饉(3)

真能寺村(現八幡町)の名主であった双木家に伝わった古文書の中に、年号が不明ながらその窮状を知るには最適の資料がありました。

おそらく天明か天保のものであろうと思われる文書を、少し長くなりますが引用してみます。

去る亥年諸国一統米不熟で、とくに奥州辺は過分の損亡につき、米値段高値に候。

これにより当田作、諸国豊作に候ても去年の不足囲米(貯穀)等にあてると、格別値段が下るとも思われず。

万一当秋も不出来に候はば、いよいよ高値になり、飢饉にもなるかも知れぬ。たとえば、当秋雑穀が豊作であっても、米穀が高値であれば諸民は困窮することは歴然としている。

百姓夫食の儀は、当作の年より貯え置く覚悟がなくては凶年のとき、差当たり難儀に及び餓死するかも知れない。できるだけ来年の食物の助けに貯え置くことを心がけるべきだ。

以下次号へ。



村の生活 飢饉(4)

もともと他の国とちがい、当御領分は勿論、近在の風儀は百姓上食を好み候ゆえ、一か年の作毛のうち一作不熟に候ても難儀に及び、夫食等も願い出る様だ。もし今後凶年のとき夫食、物借りなど願い出し、上より御手当の御慈悲があっても、大飢饉のときには、大勢なので御手当もできかねる場合もあろう。

凶年でないときに、それぞれが覚悟することが肝要である。

いまより作柄は勿論、山野等にある草木の葉を夫食の助けにするよう摘とり干して貯えておきなさい。

一、前条の上食というのは、 米粟、麦の類で百姓には宣しき食物にて、当所の在々では食していると聞くが、他の国では畑作粟などは不足に仕付け、稗を専ら蒔付け、第一の夫食としている。ことに石数多くとれ候につき格別夫食のたしになり候。

たとえば稗は一石が一石の助けになり候。よくつき候えば実は2〜3斗になり、いずれも粉になり候ゆえ、その粉をよく練り麦や粟を焚き候上へ置き、むしてまぜ合わす。

以下次号へ。



村の生活 飢饉(5)

粟一石は実五〜六斗であり、はなはだ損である。当所は往古より仕来り候癖があるので、右の通り心がけるように申付ける。

もし、もっとよい方法があればそれもよろしい。

朝夕定法食事の外、無益の食事をいたし、農業のひまを費すことは、これまた仕癖のことゆえ、急にはなおらないだろうがよくよくわきまえて、百姓がつづくようにしなければいけない。

当所では牛馬の飼料にしているものも、夫食の助けになるようそれぞれ心がけるようつぎに申し聞かせる。

一小豆の葉 但し実入りの障にならぬように取り干葉にすべし

一ささげの葉 右に同じ

一里芋の葉 右に同じ

一牛労の葉 右に同じ

一大豆の葉 右に同じ

尤牛馬の飼料にして来たが、他の国では専ら夫食に用い候その旨牛馬飼料には、山野の草を苅干して来春の飼料と心得べし。

以下次号



村の生活 飢饉(6)

一榎の葉、藤の葉、ふきの葉、はこべ、さいかち、くさぎ、志もつ、野大根、葛の葉、根共に菜大根

但当所大根少なく蒔き候ゆえ干葉にはせず切干にしている由にて、夫食の助けには少ない故してはいけない。今後は畑作多く仕付、大根をぬきとり候とき、根葉ともに縄にてあみ、よく干上り候とき、しまっておき正月、二月よりの夫食の助けにしなさい。

以上が双木家文書の内容ですが、お読みになってお分りのように、これは幕府が真能寺村の領主であった黒田藩から各村に宛てた飢饉に対する農民の心得書のようです。現在ではとても食べることができないような野の草を、食べていたことが分ります。

次号からは、吾野地域の飢軽について掲載の予定です。



村の生活 飢饉(7)

天保五年(一八三四)三月付のつぎの文書は、南村の名主であった岡部家に伝わったものです。

内容を要約してみますとつぎのようです。

私どもの村(南・坂石町分・坂石・坂元・南川・北川・高山・上名栗の各村)は、ごく山の中で、作物の実入りが悪く、毎年食べるものに不足しております。そのために絹・紙・煙草などをつくったり、山稼・日雇・駄賃などの賃銭で穀物を買い入れてきました。

ところが近年、夏から秋にかけての冷気が長びき、凶作となったため米が高値となったのは勿論のこと、他の穀物まで高値になりました。

また売り出す絹・紙・煙草は安値になったため、草根、木皮などまで夫食にするようにとのお役人様のすすめに従い、豆、蕉、菜大根などは勿論、栗、どんぐり、葛、蕨まで食べて、どうやら露命をつないで参りました。

以下次号へ。



村の生活 飢饉(8)

このたび村役人どもが相談した結果、現在飢渇している者を捨てておくわけにもいかないので、貯えて置いた稗を分け与えていただくとともに、お金を貸して下さい。その金で麦、粟、稗などを買い受け、困窮者に与えたいと思います。

命をつないだ上は、このご仁徳を家族、児、女子まで申し聞かせ、永久に語り伝えます。

また、お借りするお金の返済は十か年賦にして下さい。

以上のような内容で代官所へ願書を出しました。

たぶん、この願書は聞き届けられたのでしょう。

その後、天保八年(一八三七)には、無事飢饉を切りぬけられたのは、ご仁徳のおかげであるという内容の感謝の文書が代官所へ出されております。

以下次号へ。



村の生活 飢饉(9)

御仁恵のお救金によって、餓死者もなく、ありがたきしあわせでございます。

ふだんなれない木ノ実、草ノ根などを食べて露命をつないだ貧民のことゆえ、発病したものもありましたが、お手製の良薬を頂戴して、煎じて用いたところ日増しに血色もよくなり、すべての百姓妻子にいたるまで喜んでおります。

このありがたき次第を、朝夕申しております。

この、こ恩徳の万分の一にも当たりませんけれども、炭木を切りとったあとの株に、自然と生えた椎葺が、少しとれましたので献上いたします。

あまり少しなので、差し押さえましたが、百姓一同が申しますので、どうかお受けとり下さい。

天保八年三月 武州秩父郡

南村

坂石町分村

坂石村

坂元村

高山村

北川村

南川村

上名栗村

山本大膳様

御役所 右八ヶ村惣代

名主 藤兵衛



村の生活 飢饉(10)

前号まで真能寺村、南村の文書で、飯能における飢饉の様子をたどってきましたが、ほかの村々もほとんど同じ状態であったろうと思われます。

それを示すものとして、市史編さんのためお借りした文書の中に、じつに多くの「拝借金証文」・「お囲穀拝借」などと標題したものが見られます。

ひとたび飢饉となれば、村の存亡まで考えられるわけですから、救米を困窮者に与えることや借金をしたりということも名主など村役人の役割りの一つでした。

私達は現在食糧に困るということはありませんが、享保、天明、天保、明治二十年代、昭和初期と歴史上では、凡そ五十年に一回の割合で大きな飢謹に襲われたようです。

これらの歴史が教えてくれるのは、こと食糧の問題に関しては、これほど技術の発達した現在においても、安心してはいられないということでしょう。

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