文久10年(1863)3月、公儀より大坂加番(大坂城の警備)を命ぜられた黒田伊勢守(黒田家9代直和)は、半年の任務を終えると、その帰途黒田家の菩提寺である能仁寺へ参詣することになりました。
以下は双木利夫氏所蔵の「諸日記」を中心に、そのときの様子を記述したものです。
加番を命ぜられた黒田伊勢守は、4月23日に江戸下谷の上屋敷を出発しました。
この行列は5月6日に大坂へ着きましたが、その道中「小高の大名にしては、みごとな行列だ」との評判であったということです。普通の大坂加番は1年間(本加番)ですが、このときは前の大名が急に役がえとなったための加番で半年間でした。
7月8日の夕方、飯能の村役人宅へ岡役所(今の岡部町で黒田藩の出先役所があった)から代官が訪ねてきました。
「殿様が大坂からの帰途、能仁寺へ参詣し、かたがた4か村を巡見するので落度のないように」との知らせでした。代々の藩主は能仁寺を訪れているようですが、飯能・久下分・真能寺・中山の地元4か村はその都度それへの準備で多忙をきわめたようです。
このときの四か村の役人はつぎの人達でした。
中山村 名主 山崎善右衛門
組頭 吉右衛門、鯉右衛門、民次郎、(前田)源八郎、
飯能村 名主 大河原又右衛門
名主 小山忠蔵
名主 小能俊三
組頭 周蔵
久下分村 名主 小山八左衛門
組頭 新七郎
真能寺村 名主 双木利八郎
組頭 治輔、萬平
これらの人達が先に立って領主を迎える準備にとりかかりましたが、現在の飯能市域には四か村のほかにつぎの村々が黒田藩に属しておりました。
矢颪村、永田村、小岩井村、前ヶ貫村、川崎村、白子村、平戸村、虎秀村、上井上村、下井上村、長沢村
このほかに岩淵村と宮沢村に若干の領地がありました。
四か村が主体となって準備を進めたとはいえ、これらの村々も少なからず準備や課役にたずさわったようです。
とにかく領主をはじめ244人という一行の食事、宿泊などの世話をするのですから、それは大変なことであったろうことは想像に難しくありません。
7月29日に飯能村名主大河原又右衛門宅へ中山村、真能寺村の名主が集まって、まずは前例を調べることから始められました。
幸い文化12年(1815)8月に黒田直侯(七代藩主)が訪れた際の詳しい記録がありましたので、それをひもといて種々の手配りの打合わせをすることができました。
それによるとつぎのような、例になっているのでした。
○岡役所より領分小前田に泊り越生今市村名主田嶋七郎右衛門宅で昼食をとり、それより能仁寺へ。
○4か村名主の惣代が今市村へ御用窺として出向くこと。
○今市村役入が能仁寺まで送ってくること。
○到着の際能仁寺山門にて道具並びに供役人衆は分れ、東の口より御供内へ入ること。
○お着きの折能仁寺矢来門より殿様歩行。玄関へ五役僧のうち2人が鏡板まで出迎え。3人は玄関で。方丈は障子の内に居る。
○多峰主へは4か村名主と代官が案内する、黒門より歩行し庵で装束を改め、それより廟拝礼、方丈付添。前岩山御見物、山々を一覧する。帰りは裏道を通行する。
○多峰主を参詣してのち、4か村を巡見する。
○4か村巡見の際広渡寺へ寄る。和尚は玄関へ出迎え、餅菓子やあんころ餅を献上する。
○広渡寺の檀中一同は麻幕一対をつくる。上麻でつくるので15・16両はかかるだろう。
およそ以上のようなことが分りました。
また道端の見苦しい家の修繕や道路、橋などの普請もしなければならないことも分りました。
このように箇条書きにすると堅苦しいことばかりのようですが、つぎのようなエピソードもありました。
「天保のとき(天保12年であろうか)豊前守様(八代藩主直静)が大阪より下向の際能仁寺で1日休息したことがあった。その日阿須ハケヘ遊覧にでかけたが、真能寺村名主双木利八が案内をした。
利八はタバコ好きで、案内しながら切火でタバコに火をつけると、殿様はそれを所望された。
供のお側衆も不苦とのことであるので、すいつけのタバコをさしあげ誠に恐縮した」ということです。
黒田の殿様は庶民感覚をも身につけておられた方であったようです。
いよいよ準備にとりかかりましたが、時間のかかる家の修繕や道普請が先ということになります。
7月29日の打合わせが終ると早速御通行道である松井戸、早戸沢の見分に出かけました。
御通行道についてもつぎのように決められました。
○多峰主裏道は三尺幅で道普請をし、その両側一尺通りの草木をきれいに切りとる。
○中山より八幡様の後を通るので、幅一丈(3・3㍍)と定めて木の枝などを落とす。
○広渡寺玄関前は一間通り砂利を敷く。
○八幡前の中山と真能寺の村境にある大ゑの木の枝を落とす。
○八幡宮の後の十字道より西へ飯能村聖天林東際まで桑の枝を残らず落とす。
○中山村は通りの内に藪などがあるが、古来よりの町並で表は屋敷地である。後は前々から殿様が来られる折畑薮については垣にしてきた。
○八幡前の初五郎宅は悉く見苦しいので先頃普請について申し付けておいたが、まだ始めないので再び申し付ける。
甚蔵店は大工の弥太郎がようやくはじめたようだ。
○中山村では高橋通りの道をきれいに普請ができたようだ。
文化12年(1815)の参詣のときには中山村から聖天林へぬけて、能仁寺赤門への通行でしたが、この度は中山村の石灯籠から真能寺村の八幡神社裏を通り、飯能・久下分宿通りをぬけ、河原への道を御通行するよう願い出ました。
それというのも、文化年間に能仁寺河原通りの大門を龍潭方丈がつくったからです。
しかし願いを受けた役人は、相談の結果「先規にないので願い出の通りにはしかねる」とのことでした。
そこで恐れもかえりみず「文化のころ、龍潭方丈様より内々のお願いもありましたし、この節方眼隠居様も河原隠宅に存命中ですので、どうか願いをお聞きとどけて下さい」と再び願いでた結果、ようやくお聞済みとなりました。
先例をかえるということが、いかに大変であったかということがうかがい知れます。
いよいよこれで各村が準備にとりかかることになりますが、以下は真能寺村を主として準備の模様を目記風にたどりたいと思います。
7月晦日村方(真能寺村)の道普請をはじめる。
広渡寺の大門が芳(香り草)で幅が狭っているので、一尺(30㌢㍍)ずつ切りとり土も入れ、中山から八幡様のうしろの往来は幅一丈(3・3㍍)と定めて、木の枝などを切り落とす。
八幡社脇杉の枝落とす。木登り人丑五郎、栄助、忠次郎、定次郎、伴次郎の5人。
広渡寺の玄関前一間(1・8㍍)通りに砂利を敷き、左右に一升(1・8㍑)の盛砂をした。
八幡前の水はけが以前から悪いので、この度損馬河原まで畑の畔を掘り、水路をつくる。
この日道普請ができたのは武蔵屋治輔殿脇まで。横町の分はへりを取り一丈に砂利を敷く。
また、私宅(双木利八郎)前も直す。これはもし殿様が土瓶屋を一覧したいという時のため不都合があってはいけないので。
もっとも以前は土瓶焼がなかったので先例はないが。
夕方より雨降りはじめ、明日の道普請は覚束なく思われる。この日の人足は全部で55人。
8月朔日 続いて道普請の予定だったが、大雨のため見合わせる。
8月2日 西の組一同多峰主御道普請に行く。東の組は続いて道普請をする。この日前田も道普請を行うが、幅7尺(2・1㍍)と定めたという。
村方初五郎は自分の家を修繕のため伝馬を免除し、大工の弥太郎を遣す。
能仁寺へ人足10人遣す。
昼後八ッ時(午後2時頃)広渡寺西道、林右衛門武蔵屋並びに西丑五郎、西道田丸屋脇までていねいに道普請できる。
8月3日 大雨で困り入る。
去る晦日8か村役人が堺屋又右衛門宅へ寄り合い、90歳以上の者、親孝行の者の届出の相談をする。親孝行の者はなく、90歳以上は小能俊三祖父小能庄八郎92歳の届けをすることになった。
8月4日 初五郎宅ようやく普請をはじめる。
8月5日 多峰主裏道普請1か村で20人ずつ80人でる。
黒門より能仁寺入口まで幅6尺より7尺(約2㍍)につくる。多峰主表松枝の道掃除は真能寺百拾壱間(200㍍)久下分百六拾間(288㍍)飯能弐百九拾間(522㍍)中山百九拾間(342㍍)とする。
以下次号へ
8月6日 多峰主裏道普請村方20人のところ、市日につき11人差出す。他の村は20人ずつ出す。
8月7日 能仁寺人足20人差出す。飯能村はまだ道普請ができないため10人。この日借家入へ3まわり目の伝馬触れ出す。
地借り店借りの人達は職人が多いため、買人足して差出す。
八幡前初丘郎宅普請でき上る。
8月8日 能仁寺詰人足50人、中山村より40人、飯能村より10人。岡役所より先触来る。「殿様御通行筋道橋並びに御本陣向見分として明8日岡役所を出立飯能まで役人が来る」旨の連絡。
この役人の出迎えに小能俊三、小山忠蔵、双木利八郎の3人中山村境まで出る。
久下分小山八左衛門悴邦三郎、中山村組頭葛平悴孫太郎組頭、吉右衛門悴増太郎、民次郎の4人が鹿山まで案内として行く。
8月9日 人足50人能仁寺伝馬。飯能、久下分両村で出す。
御代官篠崎様多峰主御見分。
案内として又右衛門、利八郎、俊三、忠三の4人参る。にぎり飯、酒5・6合、にしめ、蓮、玉子、椎茸、日光漬、奈良漬、生姜持参。表より登り裏道を下る。多峰主御廟外垣の頭の大貫の修覆を抑せつけられる。
以下次号へ
8月9日、殿様15日に到着の様子に付き、壱札4枚つくる。書役小能俊三。文にいわく。
来る15日領主様御入に付16日市相休14日より16日迄3日の間牛馬車留仕候
亥8月 村役人
右の書付を四方入口に立てる
平戸村須田冨五郎、5ヶ村惣代長沢村組頭常次郎が昨日今市村よりの御用状で来る。これは山6か村(白子、平戸、虎秀、上井上、下井上、長沢)は今市村より飯能までの御用を勤めるようにとの申し付けのため。
8月10日、人足50人永田村より能仁寺詰出す。
広渡寺麻幕ようやく染上り、早速出口仕立屋為吉へ出す。13日までに仕立上るはず。
御代官篠崎様今日まで逗留にて、未明に帰る。
この日岡役所より先触れ来る。「殿様大坂より木曽路を下り中山表へ遊ばれるにつき御休泊宿割のため10日に役人が行く」旨の書状。
同日8つ頃(午後2時頃)お出迎え。
能仁寺へ47人。他の197人は、飯能、久下分、真能寺の3か村の民家へそれぞれ宿割りきまる。
以下次号へ
8月11日 小岩井村、永田村人足能仁寺へ差し出す。
多峯主裏道普請の残りを内出の人達一同で行う。
この度能仁寺室中次の間より3間のところ、狭くなり南へ3間つくる。
8月12日 村方道普請20人、山方小岩井村能仁寺詰人足30人一同立喰弁当持参で参る。
8月13日 村方人足10人能仁寺赤門より十文字まで道普請をする。但し20人は横町の道普請をする。
多峯主裏道普請残りの分を中山村人足20人で行う。
8月14日 蕎麦を所沢宿穀屋吉右衛門より馬飛脚で取り寄せる。
矢颪、前ヶ貫人足60人能仁寺表大門砂利敷く。
殿様の到着が遅れる旨書状来る。
牛馬車留の張り札を、日延になる旨書き改める。もっとも一両日のつもり。
8月15日 4か村道普請すべて終る。
中山組頭鯉右衛門殿御用窺いに行き8つ時頃帰宅。それによると15日に板鼻、16日に小前田、17日に能仁寺に到着の予定という
以下次号へ
ここで大坂から能仁寺への旅程を追ってみましょう。
8月4日 京都、守口、牧方、淀、5日 伏見、大津、草津、6日 守山、武佐、越川、高宮、鳥居本、番場、7日 醒ヶ井、柏原、今須、関ヶ原、垂井、赤坂、見江寺(御影寺)、会渡(河渡)、8日 加納、鵜沼、太田、伏見、御嶽、9日 細久手、大久手、大井、中津川、落合、10日、馬籠、妻籠、美戸野、野尻、須原、11日 上ヶ松、福鳴、宮ノ越、八五原、奈良井、執火川、本山、12日 洗馬、下諏訪、13日 和田、長窪、芦田、望月、八幡、塩名田、岩村田、小田井、14日 追分、沓掛、軽井沢、坂本、松井田、安中、15日 板鼻、(ここより中山道をはなれる)高崎、倉ヶ野、新町、以下能仁寺までは前号のとおりです。
8月16日 御通行道の再普請をする。
8月17日 真能寺、中山にて先払い2人ずつ出す。中居村役人両人坂の下小見世に出張し敬箇(警護か)致しくれ候。
8か村役人一同鹿山の先四本木という所へ出張、小前田村今朝雨天につき4つ時(午前10時頃)頃御発駕の様子を飛脚に聞く。首尾よく4つ半(午後11時頃)頃御着になる。
以下次号へ
8月18日 殿様4つ時(午前10時頃)頃御入湯。
それより心応寺、広渡寺、智観寺、4か村役人等御目見。
人足70人飯能村、久下分村35入、真能寺村15人、中山村20入を明19日出立の控人足として決める。
殿様昼後多峰主御参詣。表通り御通行。4か村役人定例により黒門際にて御見送る。この日雨天のため装束を改めず、御上下のまま御拝礼。裏かご通り御通行は駕籠にて通行する。
4か村巡見も雨のため中止となり前岩山の御遊覧も中止となってしまう。
御発駕も18日夜9つ時(夜中の12時)と決まる。
人足2百8人程外に70入を4か村が用意し馬も46疋用意することになった。
8月19日用意していた松明25、6本では間に合わず改めて60本ほど4か村でつくる。
御発駕は表門より河原通り宿方より村方御通行前田ゑの木東へ、それより所沢宿へ向かう。
笹井川原では徒士渡りができず根岸の渡船に廻る。
黒須村名主武兵衛方で小休み。
所沢村御着19日5つ時(午前8時頃)名主倉片助右衛門宅へ着く。
以下次号へ
このようにして能仁寺参詣の日程は終りましたが、当日が雨天であったため、村々を巡見することもなく、多峰主山の緑を観賞することもなしに殿様は帰ってしまいました。
その後村では、かかった経費の算出やら跡片づけが大変であったようです。
8月21日には堺屋又右衛門宅へ小能俊三、小山忠蔵、小山邦三郎、山崎善右衛門が集まり、勘定の下調べが行われました。
また23日には、江戸上屋敷に無事御帰館された殿様へ、4か村の村役人を代表して真能寺村の名主双木利八郎が、ご機嫌うかがいに出発したのでした。
このようにして準備から2か月余にわたる黒田様の能仁寺参詣は終りましたが、9月12日に19か村の村役人が中町の田中屋忠左衛門宅へ寄り合い、諸勘定を改めたのでした。
このシリーズでは、地名や人名が多く出てきましたが、このほかにも多くの村人が領主を迎えるために東奔西走し、活躍しました。
今から120年ほど前の、飯能における大きなできごとの一つでありました。