昭和36年10月29日の記事「社会探訪 或る娘の自殺」で、 八高線敷設時の事故による幽霊について触れられているので紹介してみる。(一部伏字)
(前略)
いつか一部報じたこともあるが此のレールを敷く工事で土地の人夫が崩れ落ちる土の下になつて死んだ。 多りょうの出ケツは死体を洗つた直ぐそばの川を真かに染めた。
鉄道が開通して間もなく此の場所からユウレイが出て乗客を驚かしキ車を停めたという話は有名であつた。 その後人夫の霊をなぐさめる供養塔を現場に建つてユウレイは出なくなつたものの度々生命をなくす者が出ている。
(中略)
つい最近でも友達の家に遊びに行つた帰りみちで■■■の子供がひかれて死んだ。
人一倍温和で評判のよいその人の子供が死んだとき、人々はどうして此の場所はこんなに事故があるのだろうかとあらためて不思議がつたが、冷たいレールは何も語りはしない。
(後略)
引用元:文化新聞 昭和36年10月05週
八高線の東飯能から越生迄が開通したのは昭和8年(1933年)だから、工事はその頃の話だろうと思われる。
この記事の書かれたすぐひと月前にも八高線の踏切で死亡事故が起きており、「つい最近」はそれを指している。(9/14の記事)
またこの記事には「(M)」と署名されている。
翌年の8月9日号に同様の内容があり、そちらの方が幽霊については詳しい。これもM氏の記事である。
昭和37年(1962年)8月9日 踏みきり番をする亡霊
実話特報
待ち伏せて死に誘う
踏みきり番をする亡霊
飯能地方交通安全協会(会長■■■■氏)では、このほど日高町平沢川南の八高線無人踏みきりに、 警報機を設置してほしいと国鉄当局に陳情したが、これに呼応して地元の人達もその実現のため運動を行なっている。 もっとも地元の人々が警報機を設けてほしいと運動したのはこんどが初めてではない。
十年も前から何回となく試みたが、予算不足を理由に国鉄はこれを受け流していた。
しかし日本国有鉄道何万の無人踏みきりの中で、此の場所ぐらい危険な個所はそうたんとはあるまい。
次に報じる幾多の事故を思い出すなら、おそらく国鉄当局も、即座にその必要を認めるはずである。
ゆうれいとかお化けとかの有無は別としても此の地区であまりにも多くの人命が失われている点などから、 地元の人々の中には、たしかに亡霊との因縁に結びつけて考える人は相当ある。 記者は夏の怪談として、これを取り上げるのではない。
此の事件については、いつか少し報じた事もあるが、話は此のてつ道が布設された当事にさかのぼり大方は事実の収録である。 つまり此の踏みきりの約一キロ北方から山にかかるが、此の山をくずしてテツ道工事をする際数人の人夫が死傷している。
何れも貧しい地元の男達で何がしかの日当を目的に危険な山くずしに従事したのであるが、落ちて来る岩石から逃げおくれて死んでしまった。
こんな事があってから、列車が此処にさしかかると、ゆうれいが出て進行を妨害し、さすがの機関士も、度々停車したという話があった。 つまりはち巻姿の坊主が列車に向ってトロッコを押して来るので、進めなかったというのである。
こうしたゲン影になやまされ、機関士はその度に笛をならしあげくの果、立往生したという。 既に三十年も前の事だから当時の機関士は退職しているし、確かめるに困難ではあるが、 そうしたゆうれいも供養ヒを建てる事によって姿を消したとはいえ こんど警報器を陳情した一キロの間において、驚くべき数の生命が奪われている。
それはまるで山くずしのあった所と、踏みきりの間を亡霊たちが結んで、人々を死に誘うのではないかとさえ見られている。
問題の踏みきりは飯能、坂戸県道間にあるが、終戦直後までは警手もいた。
しかし国テツは赤字のひどい此の線から、その設備を取り上げてしまった。
「それ以来亡霊がかわってて人を死に誘うようになった」と云う者もある。
多和目の名医が即死した時にも吸い込まれるようだったという 特にこの医師は此の日家を出る前にレン台(ひつぎを乗せてかつぐ)を部落に寄付するため、 職人に頼んで行ったという話などが一層不可思議な出来事のように感じさせた。
つい先月の電気屋某さんもここで生命びろいをしている自動車はこわれたが飛び出して逃げたため助かったが、こうした事故は数えきれないほどある。
(中略。多数の死亡事故の例が続く)
こうした数々の事故から、これを亡霊との因縁に結びつける人が出たとしても決して不思議ではない。
若し警報器が付けられれば、その音によって附近の安全はかなり確保されるだろうという人々の言葉には記者も同感であるし、
「こんな危険な所には最早予算不足という理由は通らない」との意見にも賛成でもある。
(M)
引用元:文化新聞 昭和37年08月02週
「問題の踏みきりは飯能、坂戸県道間にある」らしい。となると今の「平沢坂戸踏切」だろうか。
この踏切は上り下りどちらの方面もすぐ近くでカーブしており、見通しが悪い。
遮断機も警報も無い時代であれば、確かに事故は起きやすいかもしれないと思われるところである。
また、工事中の事故の発生場所は「此の踏みきりの約一キロ北方」とあり、日高市と毛呂山町の境あたり―国際医療センターの東側あたりだろうか。
人夫の霊をなぐさめる供養碑
があったのか、今でもあるのかは、少し歩き回ったが見つかるものでは無かった。
記事のタイトルの「踏みきり番」は、1キロ先、それも川向こうで起きた事故の幽霊がこの踏切までやってきて居付き、事故の犠牲者を増やしているという、いわゆる地縛霊的な事を言いたいのだろうが、ちょっと強引な感じもする。が、それだけこの踏切で不可解と思えるような事故が多かったのだろう。
この記事が指していると思われる踏切には、その後警報機が設置された。
同じ年の11月23日に其のことが伝えられている。
平沢踏切に警報機
「八高線の日高町平沢地内にある無人踏切に二十二日から警報機が設置された。
通称坂戸県道といい、今まで何件もの事故があり住民から国鉄に陳情中だった。(丹下)
引用元:文化新聞 昭和37年11月04週
記事中に「ユウレイ」の「話は有名であつた」とあるが、飯能出身の筆者はこの記事で初めて知った。
この記事を書いたM氏は平沢の隣の田波目の人らしいので、
地元ではよく聞かれる話だったのかもしれない。だが昭和37年の当時でさえ確かめるに困難
な話だった。
そして警報機が設置され、事故の発生が減るにつれ、語られることも無くなっていったのではと思われる。
さて引用中の、事故死した「多和目の名医」については先んじて
昭和36年11月5日「社会探訪 八高線」、また
昭和36年11月21日「社会探訪 名医よなぜ死んだ」でも繰り返し言及されている。
だいぶ年月が経って、昭和55年9月13日「あの時その時 事故死した医師 水村転ぽう」でも触れられている。
そこから、この記事を書いたM氏が水村氏であり、また「(M)」と署名された記事は水村氏のものであることがわかる。
「転ぽう」は「転蓬」と書き、古くは三国時代の魏の曹植の詩にも現れる言葉だが、水村氏は昭和39年9月13日の「転蓬日感 姓名判断」という記事で次のように説明している。
まず「転ぽう」という言葉について一定の住居を持たず故郷をはなれてさすらい歩く旅人の事を指すものである
とし、
続けてそう名乗るようになった経緯についてこれは僕が放浪の旅をしているときにつけた名前だが、この名前をつけてから文字通り住居が定まらず現在でもあっちこっちしている
と記している。また別の文(同年6月26日)では人は常にさすらいの旅を続けていると云ってもよいだろう
とも書いている。紙面では「転ぽう」と「転蓬」のどちらも用いており、使い分けについてはよくわからない。
従って「転蓬」「転ぽう」の語のある記事は水村氏の記事と見てよいと思われる。
水村氏のことに触れたのは、氏の記事を追っていくうちに、幾つかの記事
(「社会探訪」という社会派記事が七十余、「転ぽう日感」または「転蓬日感」と題した小随筆を三百回余にわたって不定期掲載している。)で断片的に言及される氏の経歴に興味を覚えたからである。
水村氏は大正十二年に田波目に生まれ、
昭和十三年の三月、十六歳で満蒙開拓青少年義勇軍として満州に渡った。(『廣野の夕陽』(埼玉県,昭和59年)によれば高麗川村からの送出人員数は14名で、これは日高・飯能周辺の町村の中では最も多い。次に飯能町の13名が続く。「転蓬日感」にはその時一緒に行った友人の話も出てくる。)
義勇軍には一年だけで、途中から満州鉱工訓練所に入所し、その後、吉林の人造石油会社に二年ばかり勤めていたが、
飛行隊に入営するために内地に帰る。終戦時は沖縄の作戦に参加するために熊本に移っていたが、その地で終戦を迎え、二十三歳で復員となる。終戦後の乱れた世相が厭になったので放浪の旅に出て、途上、信州の大門峠で人情に触れ、帰郷した。
その後、「三高報知」というガリ版ずりの新聞を四年ばかり発行していたらしい。
この新聞がどういうものだったかは分からないが、昭和28年9月に「三高報知社」から『三高郷土史』を「関根転蓬」の名で発行している。(「三高」とは高萩・高麗川・高麗の三村を指す。)
「水村」でなく「関根」なのは、ある記事で此の土地へ婿としてきたもので
と書いているので、この頃は旧姓だったのだろうと思われる。
内容はというと、『新編武蔵風土記稿』の当該地区の現代語訳や、各村の村勢、村長を始めとする役員・議員の氏名、そして日中戦争以降の戦死者の氏名となっている。この編集方針については「発刊にあたって」という文で「郷土の沿革や、その発展のためにつくしていった人々、及び現在活躍されて居る方々の名を一般に知っていただき、又、来るべき者達のために遺そをとゆう切なる念願を、途中で断念するに忍びない」とある。
その後、新聞配達の仕事をする傍ら昭和32年には文化新聞に寄稿するようになり、34年には記者として活躍し始めたようである。ただ40年10月を最後に、水村氏の記名のある記事は掲載されなくなる。何か事情があったのか、紙面の編集方針が変わったのかは分からない。(この頃を境に紙面から記者の記名性のある記事は消えてゆく。)その後、昭和55年になって「あの時その時」と題した短期連載が4回だけあった。内容は過去に掲載した記事を改めて振り返るようなものだった。(その一部については別に触れる予定である。)
こちらのサイト(「平和の礎を考える」)によると『嗚呼いしずえ(日高町戦没将兵の記録)』という書を昭和40年の終戦記念日に自費出版しているらしい。この書については現物を見ることができないでいる。戦死者の記録は前述の『三高郷土史』でも記載されているが、その仕事をやりなおしたという事なのかもしれない。
文化新聞の紙面から姿を隠す時期と重なっていることと関係あるのかは分からない。
さて水村氏の記事で、その場所ありきという怪談は他にもあるので、ひとつ紹介してみたい。
昭和36年(1961年)8月14日 社会探訪 飯能火葬場 管理人の霊感
今から三十三年前つまり、昭和三年六月の二十日に総工費七千円で建てたのが飯能火そう場のはじまりで
(中略)
当時は火そう場といえば人が恐ろしがった場所で、あそこ(大字飯能の台沢)といつただけではちと物足らないが、 とにかく飯能の北はずれの山中で高麗の台までは人家一軒なく小心な人は夜など峠を越せなかつたほどである。
例えば台の不動様はもともと現在の位置にあつたのではなく、あそこを通った地元民がある晩火そう場から飛び出した真黒こげの男とすれ違ってビツクリ仰天し、 それ以来人々がこわくて通れないというのでこれを守つて貰うために山の中から道(一字不明)に持つてきたという説さえある。
引用元:文化新聞 昭和36年08月03週
この火葬場から飛び出て来たモノの話は、細部は異なるが翌年にも触れられている。
(こちらの記事は文体からして水村氏のものではなさそうである。)
昭和37年(1962年)8月1日 私は見た
台の不動様の所を村人が通った時「今晩は」と声をかけてすれ違う人があり、その時あかりで 村びとが相手の顔をのぞいたら何と真黒に焼けた死ニンだったのでその後不動様を 現在の場所に出して通行ニンを守ってもらう事になったという話も残っている
引用元:文化新聞 昭和37年08月01週
当時の火葬場付近はよほど恐ろしい場所だったらしく、そのことを描写した記事が他にもある。
昭和32年(1957年)12月15日
一年前までの市営火葬場と言えば、まるで化ケ物が存在するかの如き印象を市民に与えたものだ。
まだ飯能地方では土葬の習慣が多いが、そればかりでなく火葬を敬遠する人たちの気もちもまるでこの世のものとは 考えられない程の火葬場し設にそつぽを向いた─とも考えられる
引用元:文化新聞 昭和32年12月03週
昭和34年(1959年)5月26日
当時からの無電燈地帯として非文化的な施設のままその名の通り死人以外は滅多、人の行かないまつたくこの世から 隔離された別天地で通称お化け部落ともいわれた事もあるという存在だつた。
引用元:文化新聞 昭和34年05月05週
酷い書きようだが、当時の火葬は薪で行われており、
これだと遺体の焼却には6時間も要したらしく、電灯も引かれていないので、待っている間に夕方になってしまうこともあったらしい。そのような状況では気味が悪いと感じても仕方が無かったかもしれない。
これが重油バーナーを用いて1時間に短縮されるように改修されたのが昭和34年のことである。
さて、この火葬場が怖いために台の滝不動が移動したという話は歴史的には誤りで、火葬場ができる前から滝不動は今の場所にあった。加藤喜代次郎氏による由来の説明が昭和36年4月7日の記事「観光日高の霊場 台不動尊の由来」にある。
加藤喜代次郎氏は高麗地区の郷土史研究の基礎を成した人物で、新井清寿氏とともに『高麗郷土史』(昭和30年)を著している。
また著書『ひらけゆく台』(昭和39年)には、上記の記事の内容をさらに詳しく記載している。
滝不動の沿革を時系列で整理すると、
もともとこのお不動様は、現在の滝不動の場所から北におおよそ1kmの位置にある円福寺の築山に立っていた。
江戸時代の終り頃、岡上一斎翁の発案で、現在の位置から東北100mほどの場所に、大沢堀の水を利用して滝を作り、そこへ移して祀ったという。
(岡上一斎翁という人物は名主の新井家(大澤舎)から岡上家に養子に入った人。)
明治三十三年に東京大宮道が開通したが、この工事に用いる岩石のために滝が壊されてしまい、道路開通記念碑のかたわらに移転された。
やがて大正三、四年の頃から誰があげるともなく小石を台座の上にあげる様になり、昭和八年に台の人達の寄附でささやかなお堂が建てられたという。
つまり道路開通のためやむなく現在の位置に来たのであり、飯能町営火葬場は昭和三年の建設だから、時期が合わないのである。
また「ベラボー生」という人による「半腦雜記」と題した文章には、少し違う事も書かれている。一部を引用する。
昭和27年7月14日
半腦雜記
ベラボー生
台のお不動様
ベラボー生も其の初め朝参りをしたこともあるが、其の頃は唯石彫のお不動様が道端に置いてあった丈である。
参詣と言っても朝散歩といつた方が適當なので別にこれと祈った譯でもない。
併し其の頃のお不動様は実に大した偉力を持つていた。
此のお不動様の盛り出した理由が面白い。
もと其の道の側に在ったお不動様を誰か徒らに道路の真中にほうり出してあつた、 重い車を引いて来た八百屋の小僧が此のお不動様を道の側に立てかけてやつた、
處が放り出した人が大病になつて警察の問題までも引起したが、 そのおわびがかなつてからボツ〳〵と参詣者があつてやがてはおさい銭が道端に積まれるようになつた。
引用元:文化新聞 昭和27年07月03週
このように、火葬場から飛び出たモノのために不動様を今の場所に祀ったというのは誤りなのだが、
この道に脅威が無いわけではなかったようだ。
飯能から台に通じる道は、東京大宮道が明治33年に開通するまでは、谷あいの、細く寂しい道だったらしいのだが、
この道筋には送り狼が出たらしい。
台から飯能に通ずる道路は徳川時代には、お林山の松の大木のある谷間づたいで、昼間でも淋しい道であつた。 日が暮れて飯能方面から帰る人は、ときたま送り狼に見舞れた。狼は飯能愛宕山の裏から出て、 すた〳〵人の後をついて来た。人がとまれば狼もとまり、又歩けばあとをついて来た。 恐しさにあわてゝかけてころべば、たちまち飛びかゝつて喰いついたと云う。 送られても無事に大沢堀を越せば狼は東台山のがけくづれの方へ姿を消したと云う事である。
引用元:文化新聞 昭和34年09月04週
この愛宕山は今の火葬場のある場所である。『飯能市史 地名編』によれば、昔は山頂に愛宕様が祀られていたという。
滝不動の東側に位置する東台山にも愛宕神社があり、この神社の東の沢(梅ヶ沢)にも狼が住んでいたという。
言い伝えに背いてこの社の境内の木を切ったところ、天狗が大暴れしたという話もある。
天覧山も、もとは「愛宕山」だったが、多峯主山の北東にある太郎坊といい、どうもこのあたりは天狗を連想させる地名が多い。
もともと飯能から今の日高市へ行くには、いまの飯能第一小学校の北東にある鶴舞地蔵を分岐として、
右に進めば高麗峠を経て梅原方面へ、左へ進めば木綿沢を通って横手方面へ行くのが主要な道だった。
飯能戦争の折に振武軍が敗走したのも木綿沢経由の道だったはずである。
しかし飯能町から台へ行く道が無かったわけではなく、前述の通り、沢沿いの細い道は通っていたようである。
いまでもその名残は見られるようで、少し立ち入ってみると思ったより山深い感じを受ける。
また『日高町史民俗篇』には「むじな」の話も伝わっている。
その一 昭和三十二年の頃のはなしである。飯能の永田の人が高麗で仕事をして酒を飲んでの帰り道、 台のお不動様のあたりを通り過ぎたときに突然にぎやかな祭りはやしの音が聞こえてきたという。 おはやしは近くなったり遠くになったりして聞こえてきた。気味が悪かったがむじなが化かしたのであろうと思った。
しかし初めの滝不動は大澤舎から山の中を500m近く離れたところにある。
谷間伝いの淋しい道になぜ祀ったのか、新しく造立せず円福寺から持ってきたのか、今となっては分からない。いい感じの小滝があった、というだけの話かもしれないが。
記事が書かれた昭和36年頃には、火葬場の入口は現在のように現在の国道299号線に面してはおらず、愛宕山の西側
(現在の木綿沢に向かう道、武蔵丘車両基地に跨る陸橋の東側)にあった。
愛宕山を造成して現在の火葬場が建てられたのは昭和55年のことである。
そのため「火そう場から飛び出した」となると交差点を迂回してきたのか、山を越えてきたのか、ちょっとよくわからないことになるのだが、
いずれにせよ交差点から滝不動までは約1㎞あり、少し距離がある。
従って「真黒こげの男」が現れたのは滝不動附近よりは、もっと飯能寄りの地点だったのではないか。
あるいはこのモノが滝不動前を通ってどこかに向かっていた、という可能性もある。...
昭和30年の航空写真で位置関係を示してみる。(方角の向きはおおよそである)
火葬場附近では「のっぺらぼう」の話もある。 森田豊氏が「人から聞いた話」として紹介している。 氏は上尾出身・高麗在住の教育者で、高麗中の校長を務められたこともある人物であり、 文化新聞にも数多くの連載を持っていたようである。以下に記事中の関係する個所を引用する。
昭和43年(1968年)8月30日 ひとりごと 高麗 森田 豊 〔お化け〕談義(三)
(前略)
さてこれと同じようにやはり暗夜、雨の夜のことである。 (これも人から聞いた話)かさをさして飯能の大五田(おごった) の鉄道の踏み切りを火葬場の方に歩いていくと、 さきを蛇の目のかさをさし胸高に帯をしめあしだの下駄はいた 夜目にもくっきりときれいな娘がカラコロ、カラコロと歩いていく。 「よしおいぬいて顔を見てやろう」と思って急ぎ足に近づいてかさの下から「今晩は」といってのぞきこんだ。 「あっ!のっぺら棒だ!」眼も鼻も口もない─のっぺら棒のお化けである。 「助けてくれ!」といって元来た道を夢中でかけ出したという話。 多分、火葬場の「あたご山」のきつねの仕業かもしれない…。(中略) 第一暗いのにくっきりと鮮かに着物の柄まで見えるというのが変である。
引用元:文化新聞 昭和43年08月05週
大五田の踏切は、今は高架になっているが、カインズ飯能武蔵丘店の北側を通る道と交差していた。
火葬場の「あたご山」」は前述した、送り狼が現れるとされたところだが、ここでは狐の仕業にされている。
狐が出るという風聞が無ければこうも即座に原因に上げられないだろうから、狐も出る場所だったのかもしれない。
この話は10年後にも再び言及されている。
昭和53年(1978年)9月28日 緋馬琴 森田豊 お化け談義(3)
(前略)
大五田(おごった)の踏切りの西を暗夜に先に行く、妙令(ママ)の美女が 夜眼にも美しい姿で行くから、いそいで追い越して顔をのぞくとも鼻も口もない 「のっぺらぼう」のお化けで、そのないはずの口が急に大きく開いて「ゲラ、ゲラ、ゲラ」と 笑ったとたんえてしまったというので、それを見た若衆が気絶してしまった、などというのを聞いたことがある。 あそこは「のっぺらぼう」が出るというが、いまはどうだろう。第一暗夜にきれいな娘姿が見えて先へ行くというのが変だ……それは化け物だ。
引用元:文化新聞 昭和53年09月05週
「きれいな娘」が「妙令の美女」になったり、女が笑いだして遭遇者が気絶したりなど、印象が強めな方向に細部が変化している様子が見られる。
また場所が踏切の火葬場方面(東)から西側に変化しているが、これはもともとの東側が正しいのではと思う。
というのも、のっぺらぼうが目撃された正確な年代は分からないが、
この踏切から先は長いあいだ電灯のない地域だった。旧火葬場に電灯が引かれると報じられたのが昭和34年1月28日で、「火葬場に電灯が引ければこれに便乗してこれに連なる本郷地区大五田の住宅八軒の無灯部落、天覧山下を走る吾野せんの踏切を境いに永年電燈のない部落にも待望の電気がつき」とある。
この頃より以前、踏切の先は夜ともなると闇の領域であったわけで、この目撃談も、おそらくそんな時期の話だったのではと思われる。
「暗いのにくっきりと見えるというのが変である」は確かにその通りで、暗くても見えてしまうのが怪異であり、
それゆえ普通の人間を見間違えたものではないとわかる。
大五田にはかつて伝染病患者を隔離する避病院があり、昭和三十年代にはまだ建物が残っていた。
これも怪談の発生に影響を与えていたかもしれない。
(避病院の建物については、数世帯が無断でここに住み着いていたという記事(昭和29年12月23日,昭和32年6月20日)も見られる)
いくつかの話を並べてみたが、飯能側から見ると大五田あたりから先が怪異の現れる領域だった、 あるいは怪異を語る舞台として不自然と感じない風景だったと言えるかもしれない。
2025.2.11up