飯能市の原市場地区に倉掛峠という場所がある。
この峠ではしばしば怪異が起きていたようで、原市場在住の人の文により、2度にわたって紹介されている。
倉掛峠は原市場と中藤谷津を結ぶ道で、昔から往来は多かったろうと思われる。
記事中の言葉を借りれば細々としたもので、それがくねくねと曲りくねってい
るような道筋だったが、
昭和の初期に道路の改良が行われており、峠の原市場側に「道路開鑿記念碑」がある。
書は当時の埼玉県知事である川西實三で、昭和11年の建立である。
『写真真 明治大正昭和 飯能』(赤田喜美男編,国書刊行会,昭和60年)のp106に「倉掛峠の開さく」の写真が掲載されており、
解説には…倉掛峠の開さくは永い間の住民の願いであった。昭和に入って始まった経済不況は当地にも及び、失業対策事業の一つとしてこの開さくの工事が行なわれることになった。
村を挙げての工事の結果、昭和六年に車も通れる広い道が開通し、奥武蔵の主要な道路となった。
とある。
一方、『新編埼玉県史 通史編 6』(平成元年3月)には
昭和七年八月の第六三臨時議会、
いわゆる時局匡救議会で新たな救農政策として救農土木事業の実施が決定され(中略)昭和七~九年度にかけておこなわれた
とある(いわゆる時局匡救事業)。なので『写真集』の解説の「昭和六年」は時期が少し正しくないかもしれない。
戦後も怪しいことが起きているという事は、峠の開鑿は怪異の発生に影響しなかったと見える。
まず、昭和32年の記事を引用する。
昭和32年(1957年)8月18日 原市場倉掛峠の怪
随想
原市場倉掛峠の怪
童心亭散人
此の程獣医のYさんが次の様な話をした、夏の夜の話題にふさわしいのでそのまま書くことにした
今私がこの話をすると貴方は『今時馬鹿な』と仰しやるでしょうが、是は実際にわたしが近所の人達と四人で見た事実であること先にお断りして置きます。
あの晩近所のO君がわたしの処でテレビを見ていました、やがて外へ出たと思うと、そそくさ引き返して来て 「YさんYさん一寸出て来て御覧なさい」と云う。何事かと思って外へ出て行くとO君が倉掛峠の方を眺めていました。
「何か見えましたか」と云うとO君が、
「イヤ驚いた、いまあの峠の上に真紅な提灯が見えたんです」と云います。 そう云われて見ると、指すあたりに赤い星のかけらの様な光り物が一つぽつんと浮んでいます。
わたしはそれを星だと思つて 「別に変ったことはないぢやないかね」と云って家の方へ三三歩引き返した時です、突然O君が大きな声で
「ホラホラ出ました出ましたよ」と叫びます。 「はつ」として引返すと先刻の赤い星を中心にしたあたり凡そ二十㍍斗りの処がマア何と云いましょうか、丸で山火事のように真紅になっています。 「早く早く出て来てごらん」わたしは夢中になって家人を呼びました。 家の中から二人程誰かが駆けだして来ました。時間にして二三分は続いたでしょうか、 すると又怪火は何時しか消え失せて元の闇に戻つていました。昔から狐の嫁取りと云うことを聞いていましたが、あんなことを云つたのでしょう。
それから二三日すると、又畑中の人がきて、次の様な話をした。 「是はなんでも新聞配達する男が朝暗い内にやはり倉掛峠の山の上で大かい提灯を見たんだそうだ」 それを聞いてから家の子供が「提灯を見るんだ」と云つて肯かないんで、幾度も山を眺めたがまだ一度も見たことが無いとの事だった
すると今度は穀屋のRさんが次のような話をした。「免に角倉掛けという処は変な処です。是は終戦後間もなくのことだつたが、 Sという男が中藤部落から原市場の農業会へ通っていました。或る秋のこと、初秋刀魚が入ったというので、それをしこたま買い込んで 自てん車につけて真暗い道を峠の方へ向って行きました。すると自分のすぐ前を誰かが歩いて行く、 それが提灯か何かをもつているに違いなくその灯がちらちら明滅するんだ。それにお可しなことは、 その人間は歩いているらしいにもかかわらず、自分が自転車を早めれば早くなり、ゆつくり踏めば又ゆつくり歩く、 「変な人間もあればあるもの」と思つて「オイオイ」と言葉をかけたが一向に返事がない。又振り返つた様子もない。 さあ薄気味が悪くなって来た。その時は峠の登り口の三叉路迄行つていた。がとてももう峠に登る気にはなれなかつた。 試みに自転車の尻につけた魚の包みに手をやると、それはそつくりそのままだった。 暫くの間、ぼんやり突っ立っていると、後の方から誰か近づいて来る者がある 見るとそれは農業会参事のM氏だつた。
「どうしたネびっくりするぢやないか」M氏が呆れ顔で云つた。実はこれこれと話すのももどかしくM氏の出現に力を得たS君はやつと峠を越したのであった。
こんな話を聞いたりすると、自分の経験を思い出すのが人情だろう。そう云えばわたしにも一つの怪談がある。 是はまだ戦前のこと中藤の白ひげ神社の祭礼にわたしは露店を張った。 忘れもせぬ九月十九日、奉納芝居などがあつて仲々の賑わいを呈した、併し空は宵から険悪で、ひやひやしながら商いをしていると、 十一時頃になると俄かの大夕立になった。参詣の人々はくもの子を散らす様に先を争つて帰り露店商人だけが残って後始末をした。 わたし達夫婦は取り敢えず商売道具をちかくの農家にあづけて、わたしは自転車を転がし妻のさしかける唐傘に入って二人だけで倉掛峠を越えて来るのだつた。 雨は時々強く降ったり、又小降りになったりしたが幸い雷は鳴らなかった。
さて無事に峠を越えて原市場分に来て名栗川添を歩いていた時だ 左手に山右手が竹やぶになっている。雨が又一としきり強くなった、とその時、 わたし達の歩いて行く凡そ三四間程先きを丁度人間大の黒い影がスーツと道を横切って竹やぶの方へ下りて行った。 わたしの背筋をぞーつと悪寒が走った。妻は黙って歩いていた。
「あの黒い影はわたしの瞳にだけ映ったのだろうか?」 かめ屋旅館の下迄来た時わたしが云った。
「お前先刻竹やぶので黒い影を見たかい」と、すると妻がギヨつとした面もちで云つた。
「やはり貴方もあれを見ましたの」
前に記した怪火と云い、大提灯と云い、怪しい人、そしてわたしの見た煙のような人影と云い、 あれこれ総合してみると、或いは狐狸妖怪の戯らではないかという想像が強まって来る。 元より原市場は飯能市に合併したとは言え山間僻地であることには変りないのだ
ある猟師の妻君がこのはなしをきいて目を丸くして云つたもんだ 「飯能中の猟師を総動員して山狩りでもして見たらどんなものでしようか」と
わたしは人から聞いた話と自分の想い出ばなしをいつわりなく記したまでである。 終
引用元:文化新聞 昭和32年08月04週
赤く光る提灯の怪、追いつけない人影、崖を降りていく黒い人影の、3つ話が紹介されている。
一つ目の怪異は峠の中ではなく、麓から目撃できるもので、
怪異・妖怪伝承データベースを見ると似たような話はあるようだ。
二つ目の怪異は「追いつけない怪異」とでも言うべきものだが、
怪異・妖怪伝承データベースを見ると、各地に類例がある(例1、
例2、
例3)。ただ、自転車で追いつけなかったというのは面白い。
「峠の登り口の三叉路迄」とあるので、峠の手前、今のベテラン館はらいちばのある道筋で起きたものだろうか。
「自転車の尻につけた魚の包みに手をやると」とあるのは、狐に化かされている間に食料を盗まれるという話が有名だったからだろう。
三つ目の怪異は、このような現象も「狐」のしわざになるのかと思うが、
例えば『毛呂山民俗誌 1』(毛呂山町教育委員会,平成2年)に
20数年前のはなしである。初詣を済ませた後、友達に誘われて酒を飲みいい気分で夜道を帰ってきた。 途中の野原でぼうっとした黒い人影のようなものとすれ違った。その時とても妙な気持ちがしたと同時に体に何かがとりついた様な気がした。 その後のことは何も覚えていない。後で妻にきいた話しでは、私は両腕を突っ張ってしまい、もとにもどらなくなってしまい、 家の前に来るとふっとつきものが落ちた様に正気に戻ったと言う。
という、黒い影についての話が掲載されており、これも狐の分類とされている。
ちなみに「かめ屋旅館」とは、原市場ふるさとクラブが作成した「昭和初期頃の原市場再現図」によれば、 宮ノ瀬橋のたもとの県道沿いにあったらしい。
記事中の談話に「免に角倉掛けという処は変な処です」とあることからも、 倉掛峠という場所にまつわる怪異は、掲載されている話以外にも色々あったのだろうと思わせられる。
次は昭和48年の記事で、大正十一年に起きた、「こんばん提燈(注:盆提灯)を」「下げた女」の怪の話である。
昭和48年(1973年)11月27日,28日 狐に化かされた話
山郷雑話 狐に化かされた話 童心亭散人
「エッ!狐に化かされた話だって?」と君は「馬鹿馬鹿しいと言うだろう。 だが、この話は、そんなに古い古い昔話ではなく、化かされた人が現在私の近所にピンピンしているんだから、真正証明の話なんだよ。 マア黙って聞き給え。
山村に暮らしていると、よう怪変化めいた話もいろいろ耳にしているが、それは多く又聞きの又聞き、半ば伝説化したものばかりだった。 処がこの頃になって、やっと一つの実話を突き止めたと言う訳なんだ。 その化かされたという人は、ひよっとすると、君も知っている人かも知れないよ。 ホうらあの中藤の上郷で青石という所があるでしよう。あそこに「ふるい屋」という家名の家、そこの当主のMさんがその人なんだ。
さてMさんは、明治三十八年生れというから、今年は多分六十五六才でしょう。今は農業の片手間に植木屋さんなどをやっていますよ。
化かされたというのは、今からざっと五十年前、大正十一年秋半ばのこと。 Mさんが未だ十七八才の頃のことです。その場所というのが、中藤から原市場へ抜ける倉掛峠です。 ここは昔から狐や狸がよく出るという所。 その日Mさんは自転車で原市場へ散髪に来たのだが、順調に行げば夕刻には充分家へ帰り着く時刻だったが、 明日近所に祭礼があるとかで、床場が相当混んでいて、 すっかり晩くなって了った。でも幸い、その先客の中に近所の老人が居たので、 「帰えりは一緒に頼むよ」と言うと、「よし来た、俺は畑ケ中の魚屋で待ってるよ」という。
で、Mさんはホッとした思いで、コックリ散髪をすませ、やがて表に出ると、もうすっかり暗くなっていました。
Mさんは急いで、老人の待っているという畑中の魚屋へかけつけました。 処が魚屋さんの返事は「へーい爺さんはとっくに帰ったぜ」「エーッ!」 「なんでも急な用を思い出したから一足先きに帰るからって!」 Mさんは突然深い谷底へでも突き落とされたような驚きとも落胆ともつかぬ気分になりました。
Mさんは自転車のハンドルを握ったまま、しばらくぼうと立ちつくしていました。 しかし夜はいよいよ深くなるばかり、どうしても独りで峠を越えねばならぬ破目になりました。
(つづく)
さて当時の倉掛峠の道は、細々としたもので、それがくねくねと曲りくねっていました。 おまけに自転車という、厄介なものを転がさねばなりません。 もちろん夜路を独りポッチで歩いた経験はなかったのです。只幸いと言えばここはMさん達の かっての通学路だったので、カーブの有り方とか、危険な崖の所とか、岩の出張った所と自分の足がよく知っているということでした。 その時身にしみて寂しかったのは、はるか下の方でささやく水音とか、風に鳴る木々の葉ずれの音でした。
さてこの峠で、一番怪い所と聞かされていたのは、原市場側の一つのカーブの処でした。 そこには大きな柳の木があって、その枝が道におおいかぶさるようにたれ下っています。 これ迄もいろいろな人が狐に化かされたのがこの辺だと聞いていました。
Mさんが、そんなことを考えながら、そのカーブを曲った時はるか先きの方に突然一つの提燈の燈が見えました。
「オヤ!」と思って目をこらすと、確かに一人の人間が赤いこんばん提燈をぶら下げて、 トボトボと歩いて行くではありませんか。
「しめた」と思ったMさんは勇気百倍、足に満身の力をこめて、急な坂道を登り、やっとその提燈に近づきました。
「オーイ中藤へ行くのかい、一緒に行くべい」と息をはづませて言いました。
すると、その人が立ち止ってMさんの方を振り向きました。 それは確しかに若い娘だが、かって見たことのない美人だった。 しかし女はその顔にかすかな笑みを浮かべただけで、沈黙ったなり又スタスタと歩き出しました。
しかしMさんは、誰でもよい思わぬ所で、思わぬ道連れを得た喜びに胸がはづみ、一歩一歩踏む足にも力がこめられるのだった。
しかし、それからしばらく行った時だ、提燈を下げた女の人が、黙ったなり右手の山路に入って行くではありませんか、 そこの先は梅の木カバと言われる焼ガマのある所で、夜中など先ず人の通る路ではありません。 Mさんは、あわてて、
「オー娘さん、そっちわ道が違うぜ」と呼び止めました。 すると娘は済ました顔で、真白い手で「おいでおいで」をし 見せました。 しかもその瞳は美しさを通り越し、すごくあやしい光りを放っていました。
途端にMさんの胸中を電流の様に走ったものがあった。それは「やられた!」という驚きでした。 それと同時に全身、氷の水を浴せられた様な恐怖感に襲われたのです。
だから、Mさんは、それから何処をどう歩いて、我が家にたどりついたのか全然記憶にないと言います。 それから何時間の後だろう。
倒れ込むように我が家の土間に入った。Mさんの顔は、この世の人とは思われなかったと、 そのMさんの妹さんが語ってくれました。
この話は当時かなり有名だったらしく、その後畑ヶ中のYさんに話すと、 「Mさんはその女の後を追って、山の中に迷い込み「オイオイと大声を上げて叫んだので、 中藤部落の人々がかけつけて助け出してくれたということになっているらしいが、 これはもう話に尾ヒレが付いたので、妹さんの話が本当だと思っています。
(完)
引用元:文化新聞 昭和48年11月05週,文化新聞 昭和48年11月05週
この話については、掲載の5年後に、
小谷野寛一氏により狐に化かされた話②(昭和53年11月21日)
と題して「文化新聞へ長期執筆のナンバーワン塚越夕草花氏に(中略)こんないい話をいただいた」とのコメントで再び紹介されている。
(この記事の内容は小谷野氏の『続民俗茶ばなし』(昭和58年)にも収録されている。)
小谷野氏の記事では、提灯を下げた女が向かったのは『梅の木カンバ』と言われる炭焼がまのある所で
となっており、「焼ガマ」が何を指すのかもう少し詳しくなっている。(「カンバ」は"窯場"か)
いずれも怪異の正体ははっきりしないが、「ここは昔から狐や狸がよく出るという所」という文にあるように、
人が幻惑される類の怪事は狐狸に原因を寄せられるもののようだ。
また「狐が人を化かす」ということが、昭和30年代ではまだ現実味のある話だったのだと思う。
倉掛峠という場所の怪異について強いて背景を探すなら、
『飯能市史 資料編Ⅺ 地名・姓氏』によると倉掛は「開削工事で多くの板碑が出土した」とあり、かつては墓地だったのかもしれない。
また『飯能市史 資料編Ⅶ 行政二』によると、明治以降に火葬場が「倉掛峠への山林」にあり、
避病院も「倉掛峠の西側に」あったようだ。(避病院の場所には、後に山鳩荘がオープンした。(昭和38年))
そのあたりが、周囲の他の峠に無い、畏怖される理由かもしれない。
「火葬場」に対する忌避感を背景とした話は別の記事にも見られる。
二つの記事を書いた童心亭散人という人は、塚越夕草花という名でも多くの文章・小説・俳句を文化新聞に寄せていて、
飯能の俳壇に大きく貢献した人物で、原市場神社の石段のふもとに句碑が建っている。
昭和51年7月20日の記事によると、
氏の喜寿を記念して原市場地区の俳句グループ「こだま」が建立したものらしい。
(表)
行く秋や
草に寐て聞く
風の音
夕草花
(裏)
本名塚越正中、明治丗二年大里郡
大寄村に生る 廿六才赤沢に移り
童心亭散人と号す、当地同好の志
相謀り建立す
用地提供者 土屋正氏
昭和五十一年夏
大寄村は今の深谷市の内ケ島あたりになる。
昭和59年5月19日の記事には、85歳になった氏を訪ねた記事が掲載されており、氏の略歴も説明されている。
2025.1.19up, 2025.2.11rev